大久保利通
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日本政治家大久保 利通おおくぼ としみち
明治維新後の大久保
生年月日1830年9月26日
文政13年8月10日
出生地 日本 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下高麗町
没年月日 (1878-05-14) 1878年5月14日(47歳没)
死没地 日本 東京府麹町区紀尾井町
出身校造士館
前職武士薩摩藩士
称号右大臣
従一位
勲一等旭日大綬章
配偶者大久保満寿子
子女大久保利和(長男)
牧野伸顕(次男)
大久保利武(三男)
親族大久保利敬(祖父)
大久保利世(父)
皆吉鳳徳(祖父)
大久保利建(伯父)
牧野伸通(孫)
大久保利謙(孫)
大久保利春(孫)
吉田雪子(孫)
吉田健一(曾孫)
大久保利晃(曾孫)
ェ仁親王妃信子(玄孫)
牧野力(玄孫)
麻生太郎(玄孫)
武見敬三(玄孫)
堀内詔子(来孫)
伊集院彦吉(女婿)
第5代 内務卿
在任期間1874年11月28日 - 1878年5月15日
第3代 内務卿
在任期間1874年4月27日 - 1874年8月2日
初代 内務卿
在任期間1873年11月29日 - 1874年2月4日
第3代 大蔵卿
在任期間1871年6月27日 - 1873年10月12日
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大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年5月14日)は、日本政治家[1]武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、は利済、のち利通、は甲東。位階勲等従一位勲一等

明治維新元勲であり、西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府太政官)の実質的・事実上の初の内閣総理大臣[2][3][4]
生涯
生い立ち

文政13年8月10日1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。家格は御小姓与と呼ばれる下級藩士とされている。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)移住。加治屋町の郷中藩校造士館西郷隆盛税所篤吉井友実海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。子供の頃は、当時禁忌とされていた桜島の火口に石を投げ落としたり、温泉で滝水を使った温度調整をいじって温泉客を驚かせたりと、悪戯小僧であった。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、学問は郷中のなかでは抜きん出ていた[5]

天保15年(1844年)に元服し、正助(しょうすけ)と名乗る。
幕末

弘化3年(1846年)より藩の記録所書役助として出仕。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動で父・利世は喜界島に流罪、それに連座して職を罷免され謹慎処分となり、貧しい生活を強いられる。島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。安政4年(1857年10月1日、徒目付となる。同年11月、西郷に同伴し熊本に達し長岡監物、津田山三郎らと時事を談ずる[6]精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)7月の斉彬の死後は、11月に失脚した西郷に代わり組を率いる。同年12月、西郷に書を送り脱藩義挙に就いて意見を問う[7]。安政6年(1859年)11月、同志40余人と脱藩を企画する。しかし、新藩主・島津茂久から親書を降され思い留まる。同月、藩主の実父・島津久光に時事の建言を行い[7]、税所篤の助力で接近する。篤の兄で吉祥院住職・乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したりもしている。万延元年(1860年3月11日、久光と初めて面会し、3月、勘定方小頭格となる。文久元年(1861年)9月、同志と謀り親族町田家が秘蔵していた楠木正成の木像を請い受けて伊集院石谷に社殿を造営する[8]。同年10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)し、家格も一代新番となる[注釈 1]

文久元年12月15日1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜る。元年12月28日、久光の内命により京都に上る[8]
倒幕・王政復古薩摩藩士時代の大久保(明治元年頃)

文久2年(1862年)、正月より久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜将軍後見職福井藩主・松平慶永政事総裁職就任などを進めた。


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