大中国
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大中


1094年?1096年


大中国の領域(左下の暗緑色の大理国と同じ範囲)
首都羊苴棟驕i現在の大理市
言語ペー語中国語
宗教仏教
政府君主制
皇帝
 ? 1094?1096高昇泰
歴史
 ? 大理国を継承1094年
 ? 大理国(後大理国)へ継承1096年
現在 中国
ミャンマー
 ベトナム
ラオス

大中(だいちゅう)は、1094年?闡高氏によって建てられた国家で、その領域はおおむね現在の中国の雲南省を中心に、四川省貴州省の一部、さらにミャンマー北部やベトナムラオスの一部にも及んでいたが、1096年に滅亡した[1][2]目次

1 背景

2 立国の過程

3 亡国の過程

4 君主

5 系図

6 領域

6.1 国内編制

6.2 周辺諸国


7 脚注

8 関連項目

背景

代の1080年元豊3年)、大理国の皇帝だった段廉義(上徳皇帝)が楊義貞(中国語版)に殺された。楊義貞は自ら即位して広安皇帝を称した。高智昇(中国語版)は、宰相に相当する清平官(中国語版)だった息子の高昇泰に、東方から兵馬を集め、楊義貞を討伐するよう命じた。これに成功すると、高氏は、段寿輝を擁立して大理皇帝とし、上明改元した。国の乱れを平定した功績により、高智昇は布燮に封じられて宰相となり、高昇泰は?闡侯に封じられ、より大きな権力を握った。その後、高智昇は太保に加封された。1081年(宋元豐4年)、日食が起こって昼間に星が見えることがあり、高氏父子はこれを災いを呼ぶ天変であるとして、上明帝となっていた段寿輝を退位の上で出家させ、段正明を即位させ、高氏父子が国政を一手に握ることになった[1][3]
立国の過程

1094年、高昇泰は段正明を廃し、国号を大中と改めるとともに、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した[4]。また、弟の高昇祥(中国語版)を?闡府(現在の昆明市)に、自身の幼い息子である高泰賢を永昌府(保山市)、高泰運(中国語版)を騰衝府(騰衝市)、高泰慧を?巨府(永勝県)に、それぞれ封じた[1]
亡国の過程

1096年、臨終を迎えた高昇泰は、雲南諸部が自身の治世に反対していることを理由に、息子の高泰明(中国語版)に、政権を段氏に返すよう遺言した[3]。高昇泰は没後、富有聖徳表正皇帝というを贈られた。高泰明は、段正明の弟であった段正淳を大理皇帝としたが、以降のいわゆる後大理国の時期にも高氏は重要な地位を占め続けた[1]
君主

廟号姓名年号統治期間
大中
1富有聖徳表正皇帝高昇泰上治1094年─1096年

系図

高智昇



大中富有聖徳表正皇帝
高昇泰
??1096年?闡府
高昇祥



太子
高泰明
??1116年永昌府
高泰賢


領域

当時、大中国の領域は、東は西南夷(中国語版)に臨み、東北は宋朝に通じ、東南は李朝(交趾=ベトナム北部)に及び、南は哀牢(中国語版)に隣接、西南は蒲甘(パガン王朝)に達し、北は吐蕃諸部に通じていた。大中国は立国後も、地方行政区画は基本的に大理国の制度をそのまま用い、首府は羊苴棟驍ニしていた。その一方で、大中国は封建制度を採って、?闡、永昌、騰衝、?巨の諸府を設け、それぞれに皇族の統領を分封して、皇室を守る体制を整え、領域内を統治した。また、各地の懐柔政策も改め、雲南諸部を設け、大理国以来のものも合わせて三十余の多くの部を統治した。西北地区には鎮を設け、これを治めた。首府には、府、郡、鎮、さらに?(甸)といった地方行政区画を設けた。
国内編制

都城、封府府治現在所在地高氏皇族領袖
首府大理大中国皇帝
?闡府昆明高昇祥

永昌府保山高泰賢
騰衝府騰衝高泰運
?巨府永勝高泰慧

周辺諸国

吐蕃諸部吐蕃諸部宋朝


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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