「大ルーマニア党」とは異なります。
大ルーマニア(だいルーマニア、ルーマニア語:Romania Mare)は、一般には第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期におけるルーマニアの領土範囲を示す用語で、このときルーマニアの領土は歴史上最大となった(29万5649平方キロメートル)。 この用語のルーマニア語での呼称は「Romania Mare」である。この名称は第一次世界大戦以降、ルーマニア王国の領土が、ルーマニア人が多数派を占める全ての領域を包含するようになったことを表し、かつてトランシルヴァニアやベッサラビア、ブコビナがルーマニアの領土に含まれていなかったことと対比される。これと同様の用語で「Romania Intregit?」というものもあり、概ね「再統合されたルーマニア」という意味である。大ルーマニアはルーマニアの本来あるべき領土と見なされ、Tom Gallagherによると「ルーマニア民族主義の聖杯」[1]とされた。 ウィーン裁定と独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)によってルーマニアの領土であったトランシルヴァニア北部がハンガリー領となり、ベッサラビアおよび北ブコヴィナがソビエト連邦に占領された1940年以降、この用語は失地回復や民族統一主義の色彩を帯びるようになっていった。 現在、この用語はもっぱら民族主義的な意味合いで使用されるようになった。政治の世界の用語として、特に大ルーマニア党を意識してこの用語が持ち出される時、それは民族統一主義としての大ルーマニア主義を意味し、おおよその場合、第二次世界大戦によってソビエト連邦に奪われ、その後モルドバおよびウクライナ領となっているベッサラビアおよびブコビナ地方への関心を示すものである。
名前と意味
ミハイ勇敢公
1918年、第一次世界大戦の終戦とともに、トランシルバニアとブコビナ、ベッサラビアがルーマニア王国に統合され、大ルーマニアが誕生した。大ルーマニアの誕生に成功したが、全人口の4分の1が異民族という不安定な国家となった[2]。 ブコビナにおいては、ルーマニア軍による占領後[3][4]、議会によってルーマニアへの統合が可決された。ルーマニア人、ドイツ人、ポーランド人、ユダヤ人の議員は賛成したものの、ウクライナ人(当時の人口の38%を占める)の議員は反対した[5]。ベッサラビアでは、1917年に新設された「国家議会」(Sfatul ??rii 残された最後の未回収の領域であったトランシルバニアは、1918年12月にアルバ・ユリアのルーマニア系議員による「統合宣言」によりルーマニアに加わり、1か月後には同市のサクソン系議員による投票でも支持された。トランシルバニアで人口のおよそ32%を占めるハンガリー語話者の住民(ハンガリー人に加えて多くのハンガリー語話者のユダヤ人コミュニティを含む)、およびバナト(バーナート)のドイツ系住民は、自分たちを代表する政府はハンガリーのブダペストの政府であるという認識を持ち、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊時に自民族の議員を選出しなかった。 トランシルヴァニアのマラムレシュ
ベッサラビアおよびブコビナの統合
トランシルヴァニアおよびバナートの統合
戦間期
ルーマニアは1918年から1940年までこの領土を維持した。しかしこの1940年にはベッサラビアと北ブコビナは独ソ不可侵条約の秘密議定書によってソビエト連邦に奪われ、第二次ウィーン裁定によって北トランシルヴァニアはハンガリーに割譲させられ、さらにクラヨーヴァ条約によって南ドブロジャはブルガリア領とされてしまった。1941年6月の独ソ戦ではルーマニアは枢軸国としてソビエト連邦へ侵攻、ベッサラビアの支配権を回復し、さらにソビエト連邦領内へと攻め込んだものの、独ソ戦後半の枢軸国の敗退によってこれらを最終的に獲得することはできなかった。
終戦後、ルーマニアはハンガリーに割譲した北トランシルヴァニアを再び獲得することはできたものの、その他のブルガリアおよびソビエト連邦に割譲した領土を回復することはできなかった。そして1948年の協定では、ソビエト連邦とソ連占領下で共産主義体制のルーマニアとの間で、さらにドナウ・デルタ及び黒海にある4つの無人島(ズメイヌイ島など)をソビエト連邦に割譲することとなった。
脚注^ Gallagher, Tom (2005). Modern Romania: the end of communism, the failure of democratic reform, and the theft of a nation. New York: New York University Press. pp. p. 28. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0-8147-3172-4
^ 『ルーマニア』 - コトバンク
^ Volodymyr Kubijovy?, Arkadii Zhukovsky, ⇒Bukovyna, in Encyclopedia of Ukraine, Canadian Institute of Ukrainian Studies, 2001
^ Sherman David Spector, Rumania at the Paris Peace Conference: A Study of the Diplomacy of Ioan I. C. Br?tianu, Bookman Associates, 1962, p. 70