大ディオニュシア祭
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この項目では、古代ギリシャの祭りについて説明しています。フローラン・シュミットの楽曲については「ディオニソスの祭り」をご覧ください。

ディオニューシア祭(ディオニューシアさい、: Διον?σια, Dion?sia)とは、神ディオニューソスを祝して古代アテナイで催された大祭である。主要な催しは悲劇の上演であるが、紀元前487年以降は喜劇も演じられた。これはパンアテナイア祭(en)に次いで重要な祭だった。ディオニューシア祭は地方のディオニューシア祭と市のディオニューシア祭という二つの関連する祭から成り、年中各地で行われたが、これらはディオニューソスの秘儀(英語版)の一端を担うものであった。
地方のディオニューシア祭

ディオニューシア祭はアッティカのエレウテライ(英語版)で行なわれていた、おそらくはブドウの木の栽培を祝す地方の祭であるDionysia ta kat' agrousを起源とする。これは非常に古くからの祭で、元々はディオニューソスとは関連しなかったのであろう。「地方のディオニューソス祭」はポセイドンの月(12月ごろ)に執り行われた。主な催しはポンペーという行列で、ファルス(男根)がファロポロスによって運ばれた。ポンペーには籠を持つ少女たちから成るカネポロス(英語版)や、長いパンを運ぶオベリアポロス、その他の献げ物を運ぶスカペポロス、水を運ぶヒュドリアポロス、ワインを運ぶアスコポロスも加わった。

ポンペーの後、コレーゴス(英語版)に率いられたコロスによりディテュランボスが歌われた。前年に市のディオニューシア祭で上演された悲劇や喜劇も催し物の中に含まれたかもしれないが、これはピレウスエレウシスのような大きな町では一般的なことだった。アッティカ地方の町では祭が違う日に行なわれたため、見物人は季節ごとに複数の祭を見に行くことが出来たが、これは年に祭以外に市の外へ出るチャンスが無かったアテナ市民にとって旅行する機会となり、劇団が複数の町で祭の日に演じることをも可能にした。

喜劇作家アリストパネスは『アカルナイの人々』の劇中で地方のディオニューシア祭を滑稽に模倣している。
市のディオニューシア祭
起源

大ディオニューシア祭としても知られる市のディオニューシア祭は都市部で行なわれる祭で、紀元前6世紀僭主ペイシストラトスの時代に創設されたと考えられる。この祭は地方のディオニューシア祭のおよそ3ヶ月後、現在の3月中旬から4月の中旬にかかるエラペーボリオーンの月[1]に行なわれたが、おそらく冬の終わりとその年の収穫を祈念したものだろう。伝説によれば、この祭はアッティカとボイオーティアの境にありアッティカに属することを選んだ町エレウテライの流儀に倣って確立されたとされる。エレイテライの人々はアテナイにディオニューソス像を持ち込んだがアテナイの人々は当初これを拒絶した。そこでディオニューソスが男性疾患を流行させてアテナイの人々を罰し、彼らがディオニューソス信仰を受け入れると神は病気を快癒させたと伝えられている。この出来事が毎年市民がファルスを運ぶことで再現された。

市の祭は比較的新しく創案されたもので、ではなく、紀元前7世紀に設けられ、宗教的な祭を主催するエポニュモス・アルコンによって執り行われた。
ポンペーとプロアゴン

アルコンは選出されるとすぐ、祭の開催を支援する2人の補佐役(パレドロス)と 10人の世話役(エピメレタス)を選び、市のデュオニューシア祭に備えた。祭りの初日にポンペーが行なわれ、アテナイ市民、外国人居住者、アテナイのコロニーの代表者らの行列が祭りの主役であるディオニューソス・エレウテレスの木像を運びながらアクロポリスの南斜面にあるディオニューソス劇場へ向けて行進した。地方のディオニューシア祭と同様に彼らも木や青銅で出来たファルスを運んだ。また、より大きなファルスが台車に乗せられて引かれた。籠持ちや水運び、ワイン運びも行なわれた。

紀元前5世紀半ばデロス同盟が絶頂にあったときには、アテナイの権力を誇示する様々な寄贈品や武器も運ばれたが、その行列の中には劇場で犠牲に捧げられる雄牛もいた。行列の中で一番目立ったのはぜいたくで華美な服をまとったコレゴスだった。ポンペーの後、コレゴスは合唱隊を率いて熱狂的な賛歌の競演を行った。これはとても競争的なもので、最高の笛の名手が音楽を演奏し、シモーニデースピンダロスのような詩人が作詞して提供した。競演の後、雄牛が犠牲に捧げられ、全てのアテナイ市民のために饗宴が開催された。これに続いてコーモス(英語版)という行列が行われたが、これはおそらく通りを練り歩くお祭り騒ぎだったのだろう。

翌日、プロアゴンで劇作家が演じられる劇のタイトルを発表し、審判がくじで選ばれた。プロアゴンが当初どこで行われたかは分かっていないが、紀元前5世紀中頃以降はアクロポリスにあるペリクレスのオデオン(英語版)で行われた。プロアゴンは年間を通じてアテナイになんらかの貢献をした著名な市民や外国人を表彰する場でもあった。またペロポネソス戦争中は戦争で孤児になった子供たちがオデオンに参列したが、それはおそらくは彼らの父に敬意を表すためと考えられる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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