大?ヘ
国・地域朝鮮半島
信者数教職者22人
信者約3,766人
成立年旧暦1909年1月15日
創始者羅
聖典三一神誥
天符経
参?戒経
神事記
神理大全
会三経
三法会通
神檀実記
主な指導者総典教
発祥地 大韓帝国 漢城府齋洞
本拠地 大韓民国 ソウル特別市西大門区弘恩第1洞弘恩中央路3街89
教義三一神思想
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大?教
各種表記
ハングル:???
漢字:大?ヘ
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大?教(だいそうきょう)は、檀君を朝鮮民族の始祖として崇拝する朝鮮の民族宗教である。李氏朝鮮の末期に現れた檀君を崇拝する新宗教のなかでも最大級のものであり、朝鮮の国民の統一と独自のアイデンティティの確立を求める民族主義的な動きに呼応して出現した宗教であった。外来の神を拒否し、朝鮮独自の神としての檀君を強調していた。
1909年1月15日に羅普A呉基鎬、李沂、金允植、柳瑾らが檀君教(???/檀君ヘ)を公表したのが始まりである。1910年7月30日に大?教に名称を変更しようとした際、檀君教の名称を固守する鄭薫模と内紛を起こし、親日派の檀君教と抗日派の大?教へと分派していった。
1915年10月に朝鮮総督府の「総督府令83号宗教統制案」により、大?教は宗教団体に偽装した独立運動団体と規定され弾圧が激しくなると、すぐに総本司を満州和龍県青波湖に移して徐一、朴賛翊などと共に民族教育を行い独立活動家を養成し、『神檀実記』、『神檀民史』などの本を編纂したが、これは大韓民国臨時政府の国史教科書に指定された[1][2]。
建国後は、檀紀年号や開天節を制定、弘益大学校を創立するなどある程度の影響力を発揮したが、1960年代以降、急激に衰退した。その原因としては、壬午教変など徹底的な弾圧、朝鮮戦争による混乱と北朝鮮による指導者拉致、軍事政権による排斥、西洋思想の普及、脱民族主義の拡散、教団の分裂などが挙げられている。[3]
現在大韓民国に約50?60万人の信徒がおり、総本司が直接関与する施設は、道本司4カ所、施教堂100カ所余り。
沿革
1909年1月15日、弘巌・羅浮ェ再建(大?教では己酉重光と呼ぶ)、1910年7月30日 大?教と改名。北間島に支司を設置する。
1914年 本司を間島に移し、古経閣を設置し、北間島に東道本司(徐一主管)、上海に西道本司(申圭植主管)、ロシアに北道本司(李相?)、ソウルに南道本司(姜虞主管)置く。
1915年10月10日、朝鮮総督府から宗教類似団体に規定され、布教を禁じられる
1916年8月15日、羅浮ェ九月山で自殺。
1917年 全組織を和龍県に移す。
1918年11月 武力抗争を標榜した「戊午独立宣言」を発表、徐一は金佐鎮、桂和らとともに義兵を集めて重光団