大スキピオ
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出典検索?: "スキピオ・アフリカヌス" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2007年8月)


プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス
P. Cornelius P. f. L. n. Scipio Africanus
スキピオの胸像
渾名スキピオ・アフリカヌス
大スキピオ
出生紀元前236年
死没紀元前183年
死没地リテルヌム(現:カンパニア州
出身階級パトリキ
一族スキピオ家
氏族コルネリウス氏族
官職トリブヌス・ミリトゥム(紀元前216年)
アエディリス・クルリス(紀元前213年)
プロコンスル(紀元前210年-206年)
執政官 I(紀元前205年頃)
プロコンスル(紀元前204年-201年)
ケンソル(紀元前199年)
執政官 II(紀元前194年)
レガトゥス(紀元前193年、190年、184年)
サリイー(紀元前211年-184年頃)
プリンケプス・セナトゥス(紀元前199年、194年、189年)
指揮した戦争第二次ポエニ戦争シリア戦争
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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(: Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 紀元前236年 - 紀元前183年頃)は、共和政ローマの政治家、軍人プリンケプス・セナトゥスに3回指名された。スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥に当たるスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と区別して大スキピオとも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルザマの戦いで破り戦争を終結させた。グラックス兄弟の外祖父にあたる。
生涯

以降の解説では、他のスキピオ家の人物との混乱を避けるために以下の呼称に統一する。

彼本人を「スキピオ」または「スキピオ・アフリカヌス」

プブリウス・コルネリウス・スキピオを「父プブリウス」

弟ルキウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アシアティクス)を「弟ルキウス」もしくは「ルキウス」

幼少期ハンニバル

執政官を輩出した名門パトリキであるコルネリウス氏族スキピオ家に生まれる。父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ、母ポンポニアは社会的に成功したプレブス出身であった。

幼少の頃は敬虔な少年であったらしく、神殿に赴いてはしばしば神々の夢や前兆を目にしたという。また評判のよい彼は早くから公職を経て元老院に入るようにと周囲から勧められており、後に弟ルキウス(後のスキピオ・アシアティクス)と共に24歳で公職を得ることとなる。

それに先立つスキピオ17歳の時に第二次ポエニ戦争が勃発し、多くのローマ人がカルタゴとの戦いに駆り出された。スキピオもローマ軍に参加し、ティキヌストレビアカンナエとローマ軍が敗北を重ねたいくつかの会戦を生き延び、その経験の中でハンニバルの天才的な用兵を目の当たりにした。またこの敗戦ではスキピオの周囲からも多くの戦死者が出ており、ティキヌスの戦いでスキピオは父プブリウスの窮地を救う事ができたが、カンナエの戦いでは妻の父であるルキウス・アエミリウス・パウルスが戦死した。この時、スキピオは残存の騎兵勢力を結集し、劣勢を挽回しようとしていたという。

紀元前212年、前述の通り、周囲の勧めでアエディリス(按察官)の公職を得る。立候補の際、スキピオが法定年齢の30歳未満であった為、護民官が立候補に反対したが、スキピオの人気に押されて異議の申し出を取り下げるという一幕もあった。

紀元前211年、父と伯父グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスバエティス川の戦いで戦死。翌年25歳になったスキピオは巧みな挙措と演説で元老院を説得、特例としてプロコンスル(前執政官)待遇でインペリウムを授けられ、新たに派遣される軍団の指揮官として就任する。アエディリスしか公職を経験していない若者にとって異例の抜擢であった。
ポエニ戦争期
ヒスパニア遠征

当時、エブロ川以西のヒスパニアは完全にカルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟ハスドルバル・バルカハスドルバル・ギスコとがこれを統治していた。

海路エブロ川流域に上陸したスキピオは、直接カルタゴ・ノウァ(現カルタヘナ)を急襲して占拠し、カルタゴ勢を驚かせる。敵の勢力の中心部を速やかに攻略したスキピオは、カルタゴ・ノウァの財力を元手にヒスパニア現地民を買収し、カルタゴの圧制からの解放者というイメージを演じる。この時、地元の部族から戦勝祝いとして美しい娘を妾にと贈呈されたが、娘に婚約者[1]がいることを知り、両親から送られた金銀を添えて娘を婚約者のもとへ返したという。また小回りの利く短めの剣・グラディウスもここの工房で生産したという。

こうしてスキピオはヒスパニアでの戦争を有利に展開していったが、同時に元老院の戦略上の関心は遠いヒスパニアにではなく、イタリア本土で対峙しているハンニバルにあることも理解していた。本国からの増援は望めず、スキピオはヒスパニアの現地民からなる軍団を編成する。

紀元前209年、ハスドルバル・バルカをバエクラの戦いで破る。しかし、ここで他のカルタゴ勢を警戒したスキピオは慎重な行動に徹し、結果としてハスドルバルは追撃を受けることなく無事に退却してしまう。これが後にハシュドゥルバル率いるカルタゴ軍にローマ領ガリア・トランサルピナへの侵入を許すという結果を招いた[2]
アフリカ遠征への布石

その後、スキピオはヒスパニアの部族を次々と攻略し、イリッパの戦いでカルタゴの残存勢力をヒスパニアから一掃する。この時点でスキピオは北アフリカへの進攻を模索しており、その戦略の一環として、カルタゴ勢として戦ったヌミディア王国との同盟交渉のため、ローマ側の使節として友人のガイウス・ラエリウスを送った。しかしヌミディア王子シュファクスはスキピオ以外の人物との交渉を拒否、危険を承知しながらもスキピオは海路ヌミディアへ赴く。[3]

交渉の結果、シュファクス及びマシニッサ両王子との同盟が成立したが、シュファクスは後にスキピオを裏切ってカルタゴへ鞍替えしてしまう。他方スキピオとの盟約を守ったマシニッサは故国を追われ、ローマ軍の支援部隊として加わる事となった。

こうして同盟を成功させたスキピオであったが、ヒスパニアへの帰路に反乱が勃発し、鎮圧に手間取る間に勢力を保持していたハスドルバルの西進を許し、ローマ領ガリア・トランサルピナへの進軍を許してしまう。しかしそれ以外の事態は順調に進み、紀元前206年カディスの攻略を最後にローマのヒスパニア支配を確立し、スキピオはローマに帰還した。
執政官に選出

紀元前205年、市民からの支持を得たスキピオは31歳にして執政官に選ばれた。しかし元老院によってシチリア島以南への渡航は禁じられており、指揮する軍団も与えられていなかった。この時期のポエニ戦争におけるローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスが唱える非攻勢戦術をとっており、ハンニバルの活動地域は南イタリアのカラブリア地方に限定されていた。しかしハンニバルの率いる軍事力は健在であり、スキピオが唱える基本戦略の攻勢への転換は、元老院には到底受け入れられるものではなかった。

そこでスキピオは市民の中から義勇兵を募集し、シチリア島で兵の訓練に日を費やす。彼の呼びかけは全イタリアに届き、とくにカンナエの戦いで生き残った者たちが雪辱のために応募したという。

スキピオは若い頃に経験した敗戦を通じてハンニバルの用兵を目の当たりにしており、機動力に優れた騎兵の活用が鈍重な重装歩兵への攻撃に有効であることを理解していた。またカルタゴ軍の内情、すなわち傭兵に頼っており、騎兵兵力はヌミディア騎兵に頼っているという欠点を見抜いていた。さらにスキピオは自軍ローマの騎兵の質も理解していた。ローマ軍の騎兵戦力は現地の諸部族か上流階級のローマ人かのどちらかであり、諸部族は忠誠心の点で当てにならず、ローマ人騎兵はただ歩兵との違いを誇示したいがために馬に乗っているだけで実戦力として不安だという欠点がある。この状況の中でいかに精強な騎兵を錬成するかという課題があった。

ある逸話によると、スキピオが思いついた解決法のひとつに次のようなものがある。シチリア島の支配階級は古来外部からの支配を好まず(ローマに隷属したのも第一次ポエニ戦争以降のことである)、激しく抵抗していた。スキピオはそのプライドに目をつけ、彼らの中で馬と武具を支給できるものを騎兵に取立ててローマ軍の中に編入し、多数の騎兵を作り上げたという。

元老院はシチリア島を視察してスキピオの兵力が錬成されているのを確認した。そこでスキピオは元老院に北アフリカへの渡航許可を要請したが、元老院の主導権を握るファビウスはこれに反対する。連敗を重ねた苦境の中で陣頭指揮を取っていたファビウスは、ローマの意表に出るハンニバルの用兵を恐れ、攻勢に出ればまたカンナエのようにせっかく養成した兵士を無駄に死なせるのではないかと危惧していた。また以前からスキピオ個人はローマ人にあるまじきギリシア文化への傾倒ぶりを非難されており、まだ年若いこともあってスキピオは元老院の古参議員たちの羨望と嫉妬との対象でもあった。しかしアフリカ遠征の吉凶をキュベレ神に伺ったところ神託が吉と出たこともあり、スキピオは北アフリカへの渡航のみは許された。ただし「ローマ軍の正規の作戦として認めない」という元老院の露骨な態度は明らかで、経済的な支援や援軍は望むべくもなかった。
アフリカ遠征マシニッサ

紀元前204年、元老院からの許可を得たスキピオは北アフリカに渡航、ウティカ近郊に上陸してウティカを包囲するが、親カルタゴ派となったヌミディア王シュファクスの妨害により失敗した。しかし翌年、スキピオはカルタゴ・ヌミディア同盟軍を夜襲で破る。これは不意打ち程度のものとも言われるが、ポリュビオスは同盟軍が4万の死者を出したと記述している。この敗戦で主導権を失ったシュファクスは、戦線を離脱する。[4]

スキピオはラエリウスとマシニッサを遣わしてシュファクスをヌミディアまで猛追し、王位から逐ってマシニッサを新たなヌミディア王位につけた(バグラデス川の戦いキルタの戦い)。これまでハンニバルを含むカルタゴ軍は騎兵兵力をヌミディア兵士に頼っていたが、ここで一転してヌミディアはローマ陣営に付くこととなり、カルタゴは孤立状態となった。
ザマの戦い詳細は「ザマの戦い」を参照ザマの戦い直前に交渉するスキピオとハンニバル

カルタゴはスキピオの登場によって劣勢に陥り、かつてハンニバルがイタリアで粉砕してきたローマ軍も、ヒスパニアでの戦闘を通じて質の高い軍勢へと変貌を遂げていた。この状況に動揺したカルタゴは外交交渉を試みながら、ハンニバルにカルタゴへの帰還を要請した。ハンニバルは数十年ぶりに母国カルタゴへ戻ることになる[5]。ハンニバルの帰還で強気になったカルタゴはスキピオの提案した和平条件を拒否。外交交渉は頓挫した。

両軍はカルタゴとウティカとの中間地点であるザマで対峙した。両軍の構成は以下の通り。

ハンニバルの兵力 - 歩兵:58,000人、騎兵:6,000騎

スキピオの兵力 - 歩兵:34,000人、騎兵:8,700騎

紀元前202年10月9日、互いの軍が対峙する中でスキピオとハンニバルは会見し、交渉による解決を試みている。スキピオはハンニバルの能力を高く評価していたし、ハンニバルもスキピオの才能に一目置いていた。ハンニバルはこれ以上の無益な戦いをやめて休戦交渉に入ることを提案したが、スキピオはハンニバルのサグントゥム包囲がもともとの発端であったと主張、自身の和平条件を後退させることはないとし、交渉は決裂した。結局、両者は自陣へ戻って戦闘に備える。

騎兵で劣るハンニバルは、伝統的な重装歩兵を主体に厚く3列に陣を布き、前面に戦象を押し出す陣形を築いた。これに対してスキピオはマニプルスを主体とする小集団をチェック模様(クインカントゥス隊列)のように布陣、右翼にマシニッサ率いるヌミディア騎兵を配置した。『ザマの戦い』(Cornelis Cort,1567)

戦闘が始まるとまずハンニバルの戦象隊が突撃した。これに対して小集団の機動力を活かしたローマ軍は柔軟な回避行動をとり、重装歩兵の前列に配置してあった軽装歩兵の撹乱攻撃や投げ槍の攻撃によって戦象は隊列を乱して暴走、混乱に陥った。マシニッサのヌミディア騎兵とラエリウス率いるローマ騎兵は、劣勢のため後退するカルタゴ騎兵を追って主戦場から離れ、残された歩兵の前列同士が激突した。歩兵同士の戦闘は熾烈を極めたが、歩兵を指揮していたスキピオは兵の疲弊を抑えるために一旦停止して戦線を横に広げ、まだ攻撃に参加していなかったハンニバルの主力を包囲する形で攻撃した。そこに敵騎兵を蹴散らして戻ってきたヌミディア騎兵とローマ騎兵が、カルタゴ歩兵の死角である後方から襲いかかり、ハンニバルがローマ軍を打ち破ったカンナエの戦いそのままの包囲殲滅が実現し、ハンニバル軍は大敗した。この勝利によってスキピオは事実上第二次ポエニ戦争を終結させたのである。

戦後、スキピオは宿敵カルタゴに寛容な方針で臨んだ。多くのローマ人はスキピオがそのままカルタゴの包囲攻撃に取り掛かると思っていたが、ハンニバルも裁かれることなく休戦が成立した。スキピオのこの戦後処理は、多くの若いローマ人たち(その中には後年スキピオを弾劾するマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスがいた)の反感を買うことになる。

ギリシア文化を好み開放的な思考の持ち主であったスキピオは、ハンニバルこそ戦後のカルタゴ復興を担う人材であり、彼を許すことはカルタゴの、そしてローマ自身の戦後処理に大いに役に立つと考えていた。しかし幼少時代に故国をハンニバルに蹂躙され、縁者が次々と殺されていく中で育ったカトたちにしてみれば、ハンニバルは同胞ローマ人に斬首磔刑など残酷な仕打ちを行った人物であり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}このような宿敵に対するスキピオの処置は生ぬるいとしか考えられなかった。


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