大アルバニア(だいアルバニア、アルバニア語:Shqiperia e Madhe)[注釈 1]とは、アルバニアの民族主義者によってアルバニアの本来の領土として主張されている地域。歴史的、あるいは現在のアルバニア人の分布がその主張の根拠となっている。この用語は、アルバニア内外にまたがって分布しているアルバニア人の居住地域を統一し、アルバニアの領土とする大アルバニア主義の願望を表している。アルバニア人の間では、「民族的アルバニア」とも呼ばれる。 民族的アルバニアとは、アルバニアの民族主義者の間で、民族的アルバニア人の歴史的な土地として主張されている地域を指し示す用語である。その範囲には、アルバニア、コソボ、セルビア領の一部(プレシェヴォ(Pre?evo
オスマン帝国支配下のアルバニア人)によって始められ、その目的はオスマン帝国の枠組みの中でのアルバニア人の文化的・政治的自治であった。しかしながら、オスマン帝国はプリズレン連盟の要求には応えようとしなかった。連盟の主張に対するオスマン帝国の反対姿勢は、アルバニア人の独立運動をアルバニアの全民族的な運動へと押し上げていった。
民族的アルバニア
第二次世界大戦イタリア保護領アルバニア。1941年8月、イタリア軍による
第二次世界大戦中、1941年のユーゴスラビアの敗北後、イタリア軍はユーゴスラビア領のアルバニア人地域を占領し、イタリアの傀儡であったアルバニア政府の統治下においた。この領域には、コソボおよびマケドニア、モンテネグロの一部が含まれる。 2008年2月にコソボが独立宣言をおこなった。国際連合では独立したコソボが他国と合邦することは認められないとしているが、このコソボの独立は大アルバニア主義の実現にむけた動きであると解釈されることもある(大アルバニアに含まれる領域を独立させ、アルバニアに併合するかアルバニアと連邦を構成することで大アルバニアを実現しようとする考え方)。2007年3月の国際連合開発計画の調査によると、コソボのアルバニア人のうちわずか2.5%がアルバニアとの統一がコソボにとって最も望ましいと考えている[2]。 2010年代においても大アルバニア主義を正当化する主張と批判は続いている。2014年10月14日、サッカー、ユーロ2016の予選でセルビア対アルバニアの試合がベオグラードで開催されたが、試合中に「大アルバニア主義」の旗を吊り下げたドローンがピッチ上に飛来したことがきっかけとなり、両国の選手やサポーター(観客はセルビア側のみ)による乱闘が発生して没収試合となった。セルビア当局は、事件に関与したとして、VIP席にいたアルバニアのエディ・ラマ首相の弟を逮捕している[3](詳細はUEFA EURO 2016予選 セルビア対アルバニアを参照のこと)。 コソボではアルバニア人が人口の大多数を占め、人口の92%がアルバニア人である[4]。 モンテネグロにも一定数のアルバニア人人口があり、その多くが南部のマレシア(Malesia
今日の状況
領土主張
コソボ詳細は「en:Albanians in Kosovo」を参照
モンテネグロ詳細は「en:Albanians in Montenegro」を参照
イピロス詳細は「チャメリア」を参照
イピロス(チャメリア)は1912年11月28日、アルバニア国家の独立宣言によるオスマン帝国軍の退却に伴って、誕生したばかりのアルバニア国家に与えられた。しかし、1913年のロンドン会議(en)によってギリシャ領とされた。戦間期にアルバニアを併合したイタリアが1943年に敗戦してからは、多くのイスラム教徒のチャメリア人(Cams)はイタリア軍にかわってチャメリアを占領したドイツ軍に加わり、チャメリア人部隊を結成した。別のチャメリア人のコミュニティはギリシャのレジスタンス組織である民族解放戦線(en)に加わった。ギリシャの民族解放戦線には1944年の段階でおよそ2500人の戦闘員がいた。1944年、ギリシャの別のレジスタンス組織でイギリスの特殊作戦執行部の指導下にあった[注釈 2]ギリシャ民族共和同盟によって、チャメリアのアルバニア人はギリシャ領から強制的に退去させられた。1928年のギリシャによる調査では、イピロスには18600人?19600人のイスラム教徒がいた。第二次世界大戦後の初の統計調査では、わずか123人のイスラム教徒のチャメリア人がこの地域にとどまっていた。アルバニアに脱出したイスラム教徒のチャメリア人(およそ20万人がアルバニアに暮らしている)は、およそ3万5千人のイスラム教徒のチャメリア人が戦前まで南イピロスに暮らしていたと主張している。