大アジア主義
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アジア主義(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、英語: Pan-Asianism)とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。
目次

1 概要

2 年表

3 人物・組織・思想

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

概要

欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張で、明治中期までの日本ではもっぱら興亜会に代表される「興亜論」(こうあろん)の名称で呼ばれた。その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、論者の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また国際情勢の変化に伴って主張内容が変化する。

当初は大久保利通李鴻章の約束に始まる日本と朝鮮との対等提携指向を指すものであったが、冊封体制下の朝鮮をめぐって江華島事件壬午事変甲申政変を経て起こった日清戦争で、アジア主義は主戦論と非戦論に分裂し、政府や国内の新聞への対外硬が主流となり、日清戦争以後のアジア主義の定義は、元来のアジアとの平和協調路線(興亜論)とは完全に正反対のものになった。

日露戦争以降のアジア主義の定義は、ロシア帝国に勝利して得た東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日中戦争を通じ、日本を盟主とした「東亜新秩序」(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、日中戦争初期の昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、大政翼賛会の興亜総本部や大日本興亜同盟による統制、そして「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。

冷戦後の国際的な地域統合の流れの中で生まれたASEAN+3による東アジア共同体構想や、本来の「日本・支那・朝鮮の対等提携」に近い日中韓首脳会談(大久保利通の玄孫である麻生太郎が主催した)で設立された三国協力事務局なども、しばしば戦前・戦中のアジア主義(特に東亜協同体論)と関連付けて言及されることがある。
年表

1873年 
征韓論沸騰

1880年 興亜会設立

1881年 玄洋社設立

1885年 福澤諭吉が「脱亜論」を発表。樽井藤吉が『大東合邦論』を執筆(1893年出版)

1891年 東邦協会設立

1893年 殖民協会設立

1894年 天佑侠結成

1895年 清朝にて強学会創立

1897年 東亜会設立

1898年 東亜会と同文会が合同し「東亜同文会」発足。亜細亜協会(興亜会の後身)も合流。

1900年 義和団事件(北清事変)、北京議定書締結。

1901年 黒龍会結成

1904年 満州義軍結成

1905年 東京で中国同盟会設立。東遊運動の開始。

1906年 南満州鉄道株式会社設立

1911年 辛亥革命

1915年 南洋協会設立。

1921年 台湾にて台湾文化協会創立

1922年 世界紅卍字会設立

1924年 孫文大アジア主義講演

1938年 三木清東亜協同体論を発表

1940年 近衛文麿内閣が基本国策要綱策定(大東亜の新秩序建設理念確立)

1943年 大東亜会議開催

人物・組織・思想
興亜会
1880年海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午事変などで日清関係が悪化していくなかで両国の平和的な提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。駐日公使の何如璋ら清政府関係者の支持も受け、日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改称し、東亜同文会が設立されるとこれに合流した。
東邦協会
陸軍の小沢豁郎白井新太郎らが中心となって設立。副島種臣を初代会長とし、の地下組織「哥老会」を利用して革命を起こそうとした。その後は東亜同文会に合流した。
善隣協会
興亜会から分離した吾妻兵治、岡本監輔らが内蒙古における医療・教育援助を目的として設立した善隣講書館が前身。和書や洋書を漢訳出版し中国へ輸出した。のち陸軍少将・依田四郎が協力し、善隣協会専門学校が設立された。一部は東亜同文会に合流した。
東亜同文会
戊戌の政変により日本に亡命した康有為梁啓超の支援をきっかけに作られた政教社系の東亜会と、中国で商業活動を担っていた大陸浪人が組織した同文会の合併により1898年発足した。初代会長は近衛篤麿で、東亜同文書院の経営を主な活動とした。
岡倉覚三(天心)
ボストン美術館東洋部(中国・日本部)部長。1903年にイギリスの出版社から刊行された英文著書『The Ideals of the East』(東洋の理想)の冒頭に「Asia is one.」(「アジアは一つである」)という著名な一節がある。この文言は、没後は本人の意図とは切り離され、大日本帝国によるアジア侵略や「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」を正当化する論理に利用されたことが指摘されている。[1][2][3]
植木枝盛
『愛国志林』、『愛国新誌』などで独自の小国主義・アジア連合論を展開。清朝や朝鮮との戦争に反対し、アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
樽井藤吉
1885年、『大東合邦論』を執筆し、日本と朝鮮の対等合併による「大東国」建国を主張した。大阪事件に連座して下獄したため原稿(日本文)を散逸し、日清戦争直前の1893年漢文で出版した。
犬養毅
頭山満の親友、盟友。東亜同文会会員。中国から亡命してきた孫文や蒋介石インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまう。
玄洋社
頭山満が主宰。福岡県を拠点にし、中国の孫文や、朝鮮の金玉均を援助した。日露戦争時には、馬賊を編成し、ロシア軍の後方を撹乱した。在野の立場を貫き、日本政府の「大東亜共栄圏」構想に与しなかったため、のち迫害される立場になった。


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