大さん橋
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横浜港大さん橋ふ頭
Osanbashi Pier

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情報
設計者アレハンドロ・ザエラ・ポロ,
ファッシド・ムサヴィ
(エフ・オー・アーキテクツ)
構造設計者渡辺邦夫+構造設計集団 (SDG)
施工清水東亜建設工業・東亜建設産業・日本鋼管工事・松尾JV鹿島フジタ相鉄・工藤JV、戸田東急・山岸・駿河JV
構造形式混構造(R+S造)、折板構造+ガーダー構造
建築面積27,270 m²
延床面積34,732 m²
竣工2002年(平成14年)11月
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大さん橋(おおさんばし)は、神奈川県横浜市中区にある横浜港港湾施設。
概要

1894年明治27年)に完成した鉄桟橋を前身とし、「税関桟橋」「横浜桟橋」「山下町桟橋」等の様々な名称があったが、その後、「大桟橋」に落ち着いた[1]。その他、太平洋戦争連合軍に接収されていた間は「サウスピア」と呼ばれ[2][注 1]、明治の末頃から1970年頃までは「メリケン波止場」とも呼ばれていた[3]。前身施設は名実ともに桟橋であったが、2002年平成14年)に完成した現在の大さん橋は構造的には桟橋ではなく岸壁であり、平仮名混じりの「大さん橋」が正式な表記である[4][5]

横浜港大さん橋ふ頭および横浜港大さん橋国際客船ターミナルにより構成され、横浜港における国内および外国航路客船の主要発着埠頭である。横浜港の象徴的存在であると同時に、横浜市や横浜港における主要観光地としても知られている[6]

日本郵船の子会社・郵船クルーズクルーズ客船である「飛鳥II」は横浜港が船籍港(母港)であり、大さん橋を拠点としている。また、横浜港周遊船である「ロイヤルウイング」や東海汽船による伊豆諸島への離島旅客航路も持っている[7]
歴史と趨勢.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "大さん橋" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2010年2月)
海上から見る大さん橋ふ頭
横浜開港から大桟橋建設まで

横浜港は幕末1859年安政6年)に開港して以来、急増する貨物量に対し、イギリス波止場(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)やフランス波止場[8]と呼ばれる荷役に必要な小規模の船溜まりこそあったものの、直接岸壁に接岸し荷役を行える施設がなかった。

増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなくなり、接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性が高まっていった[9]。艀荷役は、慢性的な埠頭不足により、海上コンテナ輸送への質的転換まで長く続き、まずは近代国家に相応しい埠頭を建設することが当時の早急の課題とされた。

明治維新直後から井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事からの要請により、1870年に工部省お雇い外国人の英国人技師リチャード・ブラントンによる横浜築港桟橋計画の提案[10]や、1874年には内務省お雇い外国人オランダ人技師ファン・ドールンにより築港計画提案[11]に至り、大隈重信大蔵卿からも接岸荷役体制に向けた築港計画が上申され、多くの要望があったが、実現できなかった[11]。また当時、既に東京港建設の機運があり、品川沖に築港する案もあったが、横浜市からの反対や財政難により、、これも実現しなかった。

横浜開港から27年が経過した1886年になり、機運はいよいよ高まり、内務省からオランダ人技師デ・リーケへの設計要請や、神奈川県よりイギリス陸軍大佐であり技官であったヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請となった[12]。しかし両者の設計案は、明治政府内でも議論が拮抗し、さらに政府内ではその上位案件として、東京港建設と横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が深まっていた。

外務大臣になっていた大隈重信は、横浜港建設を強く進言し、さらにパーマーがイギリス帝国タイムズ』記者を兼職して同紙上で日本を好意的に報道した実績[9]や、不平等条約改正に向けた日英同盟への動きと相交じり、正式にパーマーの横浜港築港案が採択された[9]。さらに下関砲撃事件での賠償のうち、アメリカ合衆国へ支払った賠償金が、1883年にグラント大統領およびアメリカ合衆国議会承認より、日本への償還が承認されており、償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的目処も整った[9]

この時期に横浜築港が正式決定されたことが、後年の横浜港や横浜市の発展に繋がる決定的瞬間であったともいえる。

こうして1889年に横浜築港第一期工事が始まり、接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。しかし基礎に必要な螺旋杭は、日本の工場からは供給できなかったため、大量の螺旋杭を輸入して建築された。こうして1894年に現在の大さん橋の前身となる「鉄桟橋」が完成した[13]


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