夢野久作
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1921年(32歳)
ペンネーム杉山萠圓
香倶土三鳥 (など)
誕生杉山 直樹
1889年1月4日
日本福岡県福岡市
死没 (1936-03-11) 1936年3月11日(47歳没)
日本東京市渋谷区
墓地一行寺(福岡市)
職業小説家
国籍 日本
最終学歴慶應義塾大学予科文科中退
活動期間1926年 - 1936年
代表作『瓶詰の地獄』(1928年)
押絵の奇蹟』(1929年)
氷の涯』(1933年)
ドグラ・マグラ』(1935年)
少女地獄』(1936年)
デビュー作『あやかしの鼓』(1926年)
配偶者鎌田クラ
親族杉山三郎平(祖父)
杉山茂丸(父)
杉山龍丸(長男)
杉山参緑(三男)
影響を受けたもの

杉山茂丸、黒岩涙香、…

影響を与えたもの

丸尾末広、鳥居みゆき、…

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夢野 久作(ゆめの きゅうさく 1889年明治22年〉1月4日 - 1936年昭和11年〉3月11日)は、日本小説家陸軍少尉禅僧、新聞記者、郵便局長という経歴も持つ。幼名は直樹、出家名は杉山泰道(すぎやまやすみち)、禅僧としての名は雲水(うんすい)、は萠圓、柳号は三八。

三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』をはじめ、田舎の風土を醸したホラー、怪奇幻想の色濃い作風で名高い。短歌に長け『白髪小僧』中の神話、『猟奇歌』のなどに代表される。絵もよくし、初期には『九州日報』で童話や今でいう一コマ漫画を描いた。

父は政界の黒幕と呼ばれた玄洋社杉山茂丸。長男はインド緑化の父と言われる杉山龍丸。三男は詩人の杉山参緑。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は孫[1]

1936年(昭和11年)3月11日脳溢血死亡、享年47。
生涯

1889年(明治22年)1月4日、杉山茂丸、ホトリ(旧姓: 高橋)夫妻の長男として福岡県福岡市小姓町に生まれる[2]。祖父杉山三郎平から、弘道館記述義四書五経[3]謡曲仕舞[4]を学ぶ[注釈 1]。1892年(明治25年)元黒田藩能楽師範、喜多流梅津只圓の下、能楽修業に入門。

大名尋常小学校(現福岡市立大名小学校)、尋常高等小学校を卒業。福岡県立中学修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)に入学[5]、宗教、文学、音楽、美術に凝り、テニスに夢中になる[3]

1908年(明治40年)修猷館卒業。同年、茂丸が福岡の祖母と母を東京に呼ぶことを条件に徴兵検査を受け、一年志願兵として近衛歩兵第一聯隊に配属される[3]

1909年、一年志願兵の訓練を終える。杉山農園創立[6][注釈 2]

除隊後、文学と絵画・美術への興味から1911年(明治44年)に慶應義塾大学予科文学科に入学し、歴史を専攻[7]。翌1912年(明治45年)在学中に見習士官としての将校教育を受け、陸軍歩兵少尉に任官[8]

1913年大正2年)、文弱を嫌う父茂丸の命により、慶應義塾大学を中退し、福岡に帰り数名で杉山農園を営むものの失敗に終わったが、後の創作に影響を与えることになる[要出典]。その後、1915年(大正4年)東京市文京区本郷喜福寺にて出家し「杉山泰道」と改名し、法号を萠圓とする[8]

1916年奈良京都で修行し、吉野山大台ケ原山に入る。しかし、2年ほどで僧名泰道のまま還俗し、1917年に農園経営に戻る。同年ごろより、父杉山茂丸門下生が創刊した雑誌『黒白』などにエッセイなどを書くようになる[8]

1918年(大正7年)、鎌田クラ(福岡市荒戸町)と結婚、鎌倉長谷の杉山家で式を挙げる(4月25日、入籍は4月18日)[9]喜多流教授となる[8]

1920年、父が社主を務めたこともある九州日報社(現『西日本新聞』)の新聞記者となる[10]。同紙にルポルタージュ童話を掲載するようになる[11]

1922年「きのこ会議」を『九州日報』に発表[12]。同年、杉山萠圓の筆名で童話『白髪小僧』を誠文堂から刊行した[10]

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で築地の杉山茂丸の自宅が炎上、九州日報社特派記者として上京、多くのスケッチを残す[10]1924年3月1日、九州日報社を退社[13]

1926年(大正15年)、5月11日の日記に「終日精神生理学の原稿を書く」とあるように、『ドグラ・マグラ』の原型となるものの執筆が始まったが構想などはより以前からあったと考えられる。同年3月16日には日本で初めて切絵を使った童話『ルルとミミ』を九州日報夕刊に発表する。さらに同年には九州日報社が経営困難となり、東京で父、頭山満内田良平らと共に資金集めに奔走した[要出典]。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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