夢幻劇
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アルフレッド・シューブラックによる La Biche au bois のポスター(シャトレ座、1890年)

夢幻劇(フェリー、むげんげき、:feerie、英:fairy play)は、19世紀フランスで流行した演劇の一ジャンル[1]ファンタジックなストーリーと、豪華な背景や機械的に加工された舞台効果などのスペクタクルを演出として伴うのが特徴である[2]。音楽、ダンスパントマイムアクロバット、そして魔法のような舞台転換を融合させることによって、メロドラマのような明快な道徳観を持つ、超自然的な要素を多用したストーリーを展開した[3][4]。1800年代初頭に生まれたこのジャンルは、19世紀を通じてフランスで絶大な人気を博し、バーレスクミュージカル映画などの発展に影響を与えた[2]
形式Les Pilules dudiable の一場面を用いたステレオスコープ

夢幻劇は、メルヘン的美学に基づいて、音楽、ダンス、パントマイム、アクロバットなどの諸演劇形態を組み合わせたものである。さらに、トラップドア(はねぶた)、スモークマシン、迅速に変形可能なセットといった革新的な舞台装置によって生み出される、スペクタキュラーな視覚効果を伴うという特徴があった[3][5]。歌唱部分も多く含まれ、お馴染みのメロディーに新しい歌詞が付けられることが多かった[6]。さらに観客の目の前で魔法のように場面が変わる舞台転換シーン(transformation scene)も重要な要素である。1830年までは、夢幻劇のほとんどの舞台転換は全景転換であった[7]。最後の舞台転換は、盛大な音楽を伴って、しばしば美しいSupernumerary actorたちが空から降りてきたりワイヤーに吊るされたりして登場するグランド・フィナーレ、「アポテオーシス」へとつながっていく[8]

これらの要素、特にスペクタクルや舞台効果は、物語そのものよりもはるかに目立つものだった。評論家のフランシスク・サルセー(フランス語版)は、夢幻劇においては、脚本家よりもデザインや演出を担当するスタッフを重要視すべきだと述べており、脚本それ自体はあまりにも支離滅裂であるため「最初と最後を入れ替えることもできてしまう」と指摘した[9]テオフィル・ゴーティエは、大成功を収めた夢幻劇 Les Pilules du diable について、これを純粋なパントマイム作品として上演すれば、台詞が観客が楽しみにしているスペクタクルから気を散らしてしまうこともなくなるだろうと、皮肉を込めて述べている[10][注釈 1]。革新的な舞台技術を通して、童話の世界や、子供のような不思議な感覚を彷彿とさせるような、まばゆいばかりの夢のような光景の数々を、総合的に楽しむことができたのである[9]。『青い鳥 The Blue Bird』のレビューにおいて『Journal des debats』誌のライターは、華やかな軽薄さを持つ典型的な夢幻劇を風刺しつつも、夢幻劇の持つ創造性に対する大きな可能性を肯定的に評価している。

荒唐無稽なアドベンチャーやバーレスク的な思い付きの馬鹿げた混ぜ合わせではなく、他方でトリック、衣装、装飾の陳列のみで構成される夢幻劇、これほど珍しいものはない……それにしても、詩的な想像力に夢幻劇がもたらしてくれるものの何と多いことか!

夢幻劇のプロットは通常、シャルル・ペロードーノワ夫人の作品など、フランスの伝統的な童話を参考にしたものが多く、『千夜一夜物語』など外部の物語を参考にしたものや、オリジナルのプロットを作成したものもあった[9]。メロドラマと同じように、夢幻劇では善と悪の戦いが描かれる。しかし、メロドラマが両極端の存在を暗示するだけだったのに対し、夢幻劇はそれらを魔女ノームなどの超自然的な生き物として具現化することで平然と表現した[11]。また、愛や義務、美徳といったテーマに関する教訓を盛り込んだ台詞回しによって、明確な道徳的トーンが強調されていた[12]。フルサイズでの上演時間はたいてい数時間に及ぶ[9]La Biche aubois(1876年)のポスター

超自然的な存在の中で、4人の人間が登場「人物」として現れる。2人の若い恋人(アンジェーヌとヒロイックなその求婚者)、アンジェーヌの愛情をめぐるしばしばコミカルで奇怪なライバル、食べることに夢中な怠け者の従者、この4人である。登場人物たちは、超自然的な力によって幻想的な風景や数々の冒険へと誘われる。その際、人や物、場所を変化させる魔法のお守り(タリスマン)が用いられることが多い。クライマックスのアポテオーシス(神格化)において、恋人たちはまばゆいばかりの効果のもとに再会する[8]
歴史
起源夢幻劇の前身、コルネイユの Andromede オリジナル版より

夢幻劇の起源は、ルネサンス期の宮廷バレエに遡る。宮廷バレエとは、カトリーヌ・ド・メディチやフランス王アンリ4世などの宮廷指導者が、神話や寓話を題材にした華やかなデザインのバレエを依頼したものである[3][2][13]。また今ひとつの注目すべき先駆けとして、17世紀半ばにテアトル・デュ・マレで流行した pieces a machines("plays with machines"、機械演劇)のジャンルがある。こちらも神話を題材にしたもので、小規模な代表例としてのモリエールの『プシシェ』をはじめ、コルネイユの Andromede や La Toison d'or もこのジャンルに含まれる[2][3]。これらのジャンルは、イタリア建築家たち、特にニコラ・サバティーニ(英語版)の演劇工学的な仕事による貢献が大きい[3]。これらの作品は、Theatre des Jeunes-Artistes の Arlequin dans un oeuf や、アラン=ルネ・ルサージュの Les Eaux de Merlin といった18世紀のフェアグラウンド・パントマイム(theatre de la foire)に道を開いた[2][10]。フェアグラウンド・パントマイムは、コンメディア・デッラルテのモチーフと、演劇的なスペクタクルによる豪華なファンタジーを組み合わせたもので、19世紀の夢幻劇の最も直接的な前身となった[10][2]

フランス革命によって生じたブルジョワジーという大量の新しい観客たちを満足させるため、フランス演劇界には大きな変化がもたらされた。ブルジョワの好みに合わせて、様々ジャンルが生まれた。フェアグラウンドからの影響とヴォードヴィル・コメディの笑劇風のスタイルを組み合わせた夢幻劇は、当初はメロドラマの一形態だったが、両者のギャップはすぐに顕著になっていった[3][10]。19世紀の観客にとって、この2つのジャンルは対極に位置していた。すなわち、観客の涙を誘うよう計算されたプロットを持つメロドラマ、観客の笑いを誘うよう設計されたエンターテイメントを提供する夢幻劇、という両極である[3]。初期の試みとしては、Cuvelier de Trieが1801年に『親指トム』を、1802年には『長靴をはいた猫』を翻案したのが有名である[4]。夢幻劇の発展には、古典的な童話の文学性に対するフランス人の関心の高まりや、フランスで初めて出版された『千夜一夜物語』の人気が貢献していた[10]


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