多賀 英典
出生名多賀 英典(同じ)
生誕 (1943-03-01) 1943年3月1日(81歳)
出身地 日本
学歴横浜市立大学卒業
ジャンルフォーク
J-POP
職業プロデューサー、映画プロデューサー
活動期間1970年代 - 現在
レーベルキティ
ポリドール
共同作業者該当項目を参照
多賀 英典(たが ひでのり、1943年3月1日 - )は、日本の音楽プロデューサー、映画プロデューサー、キティ・レコードやキティ・フィルムをグループ会社としてもつキティ・グループの創業者。 台湾にて出生。その後、日本の神奈川県横浜市に移住。1966年に横浜市立大学商学部を卒業と同時にレコード会社ポリドールに入社。音楽ディレクター・プロデューサーとして、小椋佳[1] や井上陽水を手がけ[2]、黒盤(アナログレコード)総生産数1位から5位中3枚のアルバムを叩き込んだ伝説のプロデューサー。特に井上陽水に対する影響は大きく、楽曲「心もよう」の曲名は多賀が命名したものである[3]。1972年10月に独立しキティ・ミュージック・コーポレーションを設立[4]。音楽だけでなく『限りなく透明に近いブルー』を皮切りに多数の映画や、『マルコポーロの冒険』『うる星やつら』『めぞん一刻』『らんま1/2』『YAWARA!』『銀河英雄伝説』などのアニメ、『翔んだカップル』などのテレビドラマも手掛けた。1992年に賭けポーカーをした事で逮捕されキティを去る。その後、我那覇美奈[5] や松たか子も手がけている[6]。 現在はキティやキティエンターテインメントをグループ会社としてもつキティ・グループの会長である。 小椋佳と井上陽水の成功によりポリドールから独立して1972年10月「キティ・ミュージック・コーポレーション」を設立。後に「キティ・エンタープライズ」に社名変更した。その子会社として以下の会社を持つ形となっていた。 Kittyは設立5人の頭文字を取ったと言われている。 1995年に本業のキティ・エンタープライズは多賀の古巣であるポリドールの母体のポリグラム株式会社に買収され、ポリグラム・ミュージック・ジャパンへ改称する。これに伴いキティ・グループが中核企業となる。ポリグラム・ミュージック・ジャパンは1999年にポリグラム直属のマーキュリー・ミュージックエンタテインメントと制作部門を統合・合併されキティMMEとなった。「キティMME」は多賀がキティを去った後の会社で、南佳孝などのプロデューサーだった高久光雄が社長に就任。
来歴・人物
会社
キティ・エンタープライズ株式会社(キティレコードの原盤制作、音楽・映像メディアの発売元)
株式会社キティ・フィルム(映像製作会社)
株式会社ファイブエース(映像メディアの発売元)
株式会社キティアーティスト(芸能プロダクション)
株式会社キティビデオ(映像販売)
KRS Studio(レコーディングスタジオ。現・青葉台スタジオ)
スタジオキーストーン
キティ伊豆スタジオ(日本初のリゾートレコーディングスタジオ)
株式会社MIX(録音エンジニアリング会社)
株式会社コマーシャル・ギャング・オブ・キティ(アニメ制作プロモート・ポストプロダクション)
旗亭(きてい・焼鳥屋)