多賀竜昇司
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多賀竜 昇司

基礎情報
四股名黒谷 昇→多賀竜 昇司
本名黒谷 昇
愛称ドカベン(現役時代)
生年月日 (1958-02-15)
1958年2月15日(66歳)
出身茨城県日立市
身長178cm
体重139kg
BMI43.87
所属部屋鏡山部屋
得意技右四つ、寄り、上手出し投げ
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴557勝621敗10休(103場所)
幕内戦歴321勝407敗7休(49場所)
優勝幕内最高優勝1回
十両優勝1回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
敢闘賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1974年3月場所[1]
入幕1982年5月場所[1]
引退1991年5月場所[1]
引退後年寄勝ノ浦鏡山
他の活動日本相撲協会理事(6期)
2010年2月 - 2022年3月
趣味野球(現役時代)
備考
金星1個(北の湖1個)
2022年3月30日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

多賀竜 昇司(たがりゅう しょうじ、1958年(昭和33年)2月15日 - )は、茨城県日立市出身(本籍地は北茨城市)で鏡山部屋に所属した元大相撲力士。本名は黒谷 昇(くろたに のぼる)。最高位は西関脇(1983年(昭和58年)11月場所)。現役時代の体格は178cm、139kg。得意手は右四つ、寄り、上手出し投げ[1]

現在は、年寄鏡山として伊勢ノ海部屋に所属[1]
来歴・人物

日立市立成沢小学校時代はあまりにも元気がありすぎて、5年生の時にサッカーゴールポストで逆上がりしてポストごと倒れ、顔に17針も縫う傷を負ったこともあるという。

日立市立多賀中学校では野球部に所属し、捕手でキャプテンを務めた。野球の腕を買われて東洋大学附属牛久高等学校への入学が一旦決定したが、経済的な事情で断念。中学卒業後は職業訓練所に通い、溶接の技術を学んだ。

訓練所を卒業する直前に日立グループの子会社への就職も決まったが、近所の建設業者が鏡山親方(元横綱柏戸)の現役時代からの贔屓だった縁で鏡山部屋を紹介され、家が貧しいことを理由に角界入りを承諾。間もなく同部屋へ入門し、1974年3月場所において、16歳で初土俵を踏んだ。

当初の四股名は、本名でもある「黒谷」。

なお、改名後の「多賀竜」という四股名は、出身の日立市立多賀中学校に因んだものである。取的時代は、十両魄龍の付け人を務めた。

1981年1月場所で十両昇進、1982年5月場所で入幕を果たした。

1983年11月場所では、自己最高位となる西関脇に昇進したものの、5勝10敗と大きく負け越し[1]、結果的に関脇に在位したのは同場所の1場所のみだった。

1984年5月に母が交通事故で亡くなってからは、せめてもの供養にとそれまで以上に懸命に土俵を務め、蔵前国技館で行われた最後の本場所となった同年9月場所では13勝2敗と大勝ちして見事な平幕優勝を遂げた。この場所では、敢闘賞と技能賞を同時に受賞した[1]

2場所後、両国国技館こけら落としとなった1985年1月場所では、2日目に横綱・北の湖押し出しで破って生涯唯一となる金星を挙げた。北の湖は翌3日目の取組前に引退を表明し、彼の現役最後の対戦相手としても名を残した[1]

その後は持病の痛風の悪化などにより目立った活躍はできず、1988年7月場所では6年ぶりに十両へ陥落。しかし同場所では十両優勝を果たし、元小結・若浪に続く「天皇賜杯拝戴者の十両優勝」となった。

現役晩年は十両と幕内との往復が続き、1991年5月場所中に33歳で引退、年寄勝ノ浦を襲名した。

なお、蔵前国技館で幕内最高優勝を経験した力士としては、現役最後の力士ともなった(千代の富士と同じ場所での引退ではあったが、多賀竜の引退表明は、千代の富士より数日後だったため)。

引退後はしばらく、鏡山部屋付きの親方として、後進の育成に当たっていた。

しかし1996年12月、師匠(元横綱・柏戸)が亡くなったため年寄・鏡山を襲名することとなり、鏡山部屋の新たな師匠となった[1]

なお、長男の昇太も2003年3月場所に鏡山部屋に入門し、「黒谷昇太(くろたにしょうた)→ 竜聖昇太(りゅうせい-)→ 竜勢昇太(りゅうせい-)」の四股名で相撲を取っている。

2006年11月場所7日目、土俵下で勝負審判を務めていた際、豊ノ島安壮富士との一番で押し出しで敗れた安壮富士が土俵下に転落。


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