多胡碑
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多胡碑

多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)。多胡郡の建郡を記念して和銅4年(711年)頃に建碑された[1]

国の特別史跡に指定されており、「上野三碑」の一つとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界の記憶」に登録されている[1]。また、書道史の上からは日本三古碑の一つとされる。
概要

碑身、笠石、台石からなり、材質は近隣で産出される牛伏砂岩(石質ワッケ)である[2]。碑身は高さ129cm、幅69cm、厚さ62cmの四角柱で前面に6行80文字を丸彫りで刻む[2]。笠石は幅95cm、奥行き90cm、中央厚さ27cm、軒面厚さ15 - 17cmである[2][3]

碑文は上野国の片岡郡緑野郡、甘良郡の三郡から300戸を分けて多胡郡を新設した内容で、『続日本紀』和銅4年(711年)3月辛亥(6日)条と一致しており、同書から711年頃の建立とされる[2]

多胡碑の笠石と台石は変遷していることが知られている[4]。笠石には長い間亀裂が生じており、1774年(安永3年)の高桑闌更編『俳諧多胡碑集』では亀裂の方向が東から南西方向と記されているが、その後数度位置が変わっており、1980年(昭和55年)以降は南東から北方向となっていた[4]

周囲も江戸時代には敷石が敷かれていたとされ、「明治十四年四月上野国多胡郡池村古碑上家建築仕様目論見帳」に礎切石代が計上されていることから、1882年(明治15年)頃に木製の「雨覆」や土壇が設置された際に台石も据えられたと考えられている[4]

1967年(昭和42年)には鉄筋コンクリート製多胡碑覆屋が完成した[2]

2023年(令和5年)12月から2024年(令和6年)にかけての保存修理で、笠石の亀裂を漆喰や砂岩で修理し、前後が逆になっていた笠石の位置が正しい向きに直された[5]

通常は覆屋のガラス越しの観覧となる[6]。ただし、碑文にある「和銅4年3月9日」の日付に因んで、その近辺の休日に「多胡碑まつり」が開催されており、その日には扉が開かれ直接見学できる[6]
碑文多胡碑 拓本

多胡碑の碑文は以下の通り[7]。弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
石上尊右太臣正二位藤原尊
読み下し

弁官符(おお)す。上野国の片岡郡、緑野(みどの)郡、甘良(かんら)郡并せて三郡(みつのこおり)の内、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡(たごのこおり)と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣(の)る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊[7]
現代語訳

朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅4年3月9日甲寅に命令が伝えられた。左中弁正五位下多治比真人(多治比三宅麻呂)。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上尊(石上麻呂)、右太臣正二位藤原尊(藤原不比等[7]
解釈

この碑文は、和銅4年3月9日711年)に多胡郡が設置された[8]際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている。
考証

多胡碑文の後半には、時の政府首脳と実務官僚の名を列記し、それぞれに「尊」の尊称を付して崇めていることから、本碑は初代郡領である「羊」が企画し、自らの正当性を誇示した顕彰碑の性格が強いと考えられる[9]

国造屯倉が廃止されていく乙巳の変以降の政治体制において、新たに中央との結びつきを形成するのは「評造(郡領)」への登用であった。このため、豪族たちの間で「屯倉を与ってきた」という事績の強調が行われたことが、大化元年(645年)8月の「東国国司発遣詔」に見える[10]。こうした観点から見ると、金井沢碑や山ノ上碑の建立契機として碑面に明示された「祖先供養」の側面が強調されてきたが、その背後には評造への任官をめぐる地域内での相克が強く存在したことを推定することができる。佐野屯倉・緑野屯倉一帯においては、孝徳朝以降に車評片岡評碓氷評甘楽評緑野評が成立したとみられる。このとき、緑野屯倉は緑野評に移行したが,佐野屯倉は佐野評となることなく、車評(後の群馬郡)と片岡評に分割されたことになる。白石太一郎は、国造の領域の中には複数の優勢な古墳群があり、それぞれが分置された評のエリアと整合するとしており、7世紀中?後半には上毛野国においても立評が行われ、有力者が評造に着任した。しかし佐野屯倉が評になることはなく、烏川を挟んだ東西2評(郡)に分割された。これは、健守命の後裔が車評・片岡評の評造となった勢力に政治的に敗北したことを示している。その評造への任官の政治的アピールの過程において企画されたのが「佐野屯倉」の管理者の末裔であることを刻んだ山ノ上碑であり、「この屯倉を与ってきた」という家柄の強調であったと考えられる。そして、佐野屯倉の管理者の末裔は、和銅4年(711年)の新郡(多胡郡)建郡においても、多胡郡の有力者であった「羊」に政治的に敗北した。ここでも佐野郡の建郡はならなかったのであり、羊による多胡碑の立碑は、建碑者の文化的背景(新羅系渡来人[注釈 1])をもって、山ノ上碑とは異なる蓋首碑(笠石を持つ型式で、新羅王碑の型式に倣ったとされる)+楷書体の型式を整えて、山ノ上碑に対抗し、多胡郡の正当性を誇示したものといえる。前方後円墳が不鮮明であった甘楽東部地域を核とした多胡郡の成立は、前方後円墳を築造してきた伝統勢力ではなく、国家形成に有用な新しい経済力や技術力をもった地域集団を必要とした社会情勢をよく示している[9]

なお、旧吉井町の辛科神社は、境内の由緒書によると、新羅系氏族によって祀られた神社であり、多胡郡を設置した際に多胡郡総鎮守として崇敬されたという。
歴史覆堂

多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から郡衙(ぐんが、郡の役所)が置かれた場所と推定される。実際、平成28年(2016年)に多胡碑周辺において郡衙主要施設の正倉の遺構が発見されている[11]

8世紀に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。再び所在が明らかになるのはおよそ700年後のことである。永正6年(1509年)に連歌師宗長によって執筆された『東路の津登』に「上野国多胡郡弁官符碑」として碑の存在が示され、浜川並松別当の系図に多胡碑文が記載されている[2][4]

多胡碑の江戸前期以前の状態は不明な点も多い[12]

近世になって伊藤東涯(『盍簪録』)や青木昆陽(『夜話小録』)が著書で取り上げ、碑を通じた文化交流がみられた[4]。享保5年(1720年)の伊藤東涯『盍簪録』は碑の図を掲載しており、地元では「羊太夫之社」と呼ばれており、穂積親王の墓であるとする説があるなどの紹介をしている[2]延享2年(1745年)の青木昆陽『夜話小録』では伝聞ではあるが、碑は長くの下に倒れていたとしている[4]。また、安永3年(1774年)の泰亮(愚海)『上毛傳説雑記拾遺』では50 - 60年前に土の中から掘り出したとしている[4]

さらに江戸中期の『上毛国風土記』では堂が建てられているとし、天明6年(1786年)の奈佐勝皐『山吹日記』には拝殿が設けられているとしている[4]

近代になると明治9年(1876年)に熊谷県改変に伴って群馬県が新設された。楫取素彦が初代県令として就任し、その足で多胡碑を訪れ保護の重要さをうったえ、結果多胡碑周辺の土地が政府買い上げとなった。


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