多羅尾伴内
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『曲馬団の魔王』(東映、1954年)での、多羅尾伴内こと藤村大造(片岡千恵蔵)

多羅尾 伴内(たらお ばんない)は、比佐芳武原作・脚本のミステリ映画シリーズ、および同シリーズの主人公である架空の探偵の名前。「七つの顔の男」シリーズまたは「藤村大造(ふじむらたいぞう)」シリーズと呼ばれることもある。

片岡千恵蔵主演で、1946年昭和21年)から1948年(昭和23年)に大映が4作品を、1953年(昭和28年)から1960年(昭和35年)に東映が7作品を製作し、興行的に大成功を収めた。千恵蔵が七変化の活躍をするという痛快無比な面白さが大評判となり、とくにクライマックスの名ゼリフ「ある時は○○、またある時は××、しかしてその実体は……!(ここで名乗りを上げる)」は多くのファンによって模倣された。

昭和42年(1967年)には『七つの顔の男』の題名でテレビシリーズ化される。制作はNET(現・テレビ朝日)、比佐芳武の原作、高城丈二が主演した。

昭和53年(1978年)には、伴内ファン世代の小池一夫作・石森章太郎画による劇画『七つの顔を持つ男 多羅尾伴内』(講談社)が発刊。同年には、東映が小林旭主演でリメイク映画を製作して2代目シリーズ化をめざしたが、2作目が興行的に成功せず、シリーズは打ち切られた。

片岡千恵蔵が演じた多羅尾伴内を林家木久扇が頻繁に真似をしている。また、漫画家のバロン吉元も熱心な伴内ファンの一人であり、2005年に出版された『多羅尾伴内―七つの顔の男』(関貞三【著】/林家 木久扇【編】、ワイズ出版)には林家木久扇と共にイラストを寄せている。書中には著者の関貞三を加えた3人での鼎談もおさめられている。音楽家の大瀧詠一は変名として使用した。
「多羅尾伴内」シリーズの沿革
「多羅尾伴内」誕生・大映時代

昭和21年(1946年)、日本を占領中の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義を煽り立てる危険があり好ましくないので禁止するとの通達を出した。以後、連合軍(事実上はアメリカ軍)の占領中は剣劇が製作できないことになり、時代劇製作が中心であった京都映画界は大いに動揺し、対応策を迫られた。大映の時代劇脚本家である比佐芳武は、時代劇の大スター片岡千恵蔵のために現代劇を書くように指示され、試行錯誤と苦心の末に名探偵「多羅尾伴内」を主人公とする『七つの顔』の脚本を書き上げた。時代劇のチャンバラ拳銃による銃撃戦に置き換えられた。

こうして、松田定次監督・比佐芳武脚本・片岡千恵蔵主演の黄金トリオを中心に映画『七つの顔』が完成した。内容は千恵蔵が七変化をするミステリ活劇というものであったが、冴えない人物に扮する場合が多いためか、試写の評判は良くなかった。しかし、映画が封切られるとたいへんな大評判となり、大ヒットを記録して、以後はシリーズ化されることになった。比佐脚本・松田監督・片岡主演のトリオでは、横溝正史原作の「金田一耕助」シリーズ(東横映画)が本格推理路線を、「多羅尾伴内」シリーズと「にっぽんGメン」シリーズがアクション路線を分担し、いずれもドル箱シリーズとなった。

ところが「多羅尾伴内」シリーズは、興行的には大成功しつつも、映画批評家の間では散々な悪評であった。

ストーリーは、幼稚なたわいない話が多く、荒唐無稽である。

千恵蔵が七変化をするのが映画のポイントだが、どんなに化けても観客には千恵蔵本人であることが一目瞭然であり化ける意味が薄く、また事件の推理・捜査と大して関連してもいない。

などであった。

ついに永田雅一大映社長は「多羅尾伴内ものなど幕間のつなぎであって、わが社は今後、もっと芸術性の高いものを製作してゆく所存である。」と言明した。

これに対して激怒した片岡千恵蔵は「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。大映との契約が切れたら再契約しない。」と断言した。こうして千恵蔵と永田社長は決裂し、大映の伴内シリーズは興行的に成功しつつも『七つの顔』『十三の眼』『二十一の指紋』『三十三の足跡』の4作品で打ち切りとなった。たしかに批評家たちがいうように、「多羅尾伴内」ものには荒唐無稽な印象がある。しかしながら、大戦後の貧しい復興期にあって、多くの観客は映画に対して理屈っぽさよりもむしろ理屈抜きの痛快さを求め、それが多羅尾伴内の大ヒットにつながったと考えられよう。

本項の冒頭経緯から『七つの顔』クランクインまでは難航し、会議と打ち合わせを繰り返して企画案が固まるまで時間を費やしている。戦争で上映禁止処分にされていたハリウッド映画が占領政策のプロパガンダ一環から続々と上映されるなか、片岡千恵蔵は比佐芳武と直接の打ち合わせに際しては「敗戦から疲れた人達が観て元気になる映画にしたい。」と抱負を語り、不慣れな現代劇から手探りの役作りに鏡へ向かってソフト帽を斜めにかぶり二丁拳銃の演技を稽古していた様子などを栄井賢[1]が述懐し証言している[2]。送り出した労作は映画館でアクションに歓声を呼び、荒唐無稽な描写や破綻した設定に笑いが溢れる娯楽作品となった。

他社のヒット作を欠かさずに観て流行傾向を探っていた片岡千恵蔵が試行錯誤から送り出したこのアクション無国籍活劇の娯楽映画は、のち移籍した東映で続作にギャングややくざ映画などへ連なった。戦後復活した日活では様々な制約からしばらくは低予算の娯楽コメディや文芸作を制作していたが、1956年のヒット映画『太陽の季節』、『狂った果実』などから財力拡大で類似したアクション無国籍活劇を次々と送り出している。

大映時代の作品名にはいずれも数字が含まれており、数が増していくという趣向が見られた。また、大映時代の作品は、後の東映時代に比べて筋書きがリアルであったともいわれる。大映作品の常連であった喜多川千鶴は、東映作品でも2度起用され、千恵蔵以外ではシリーズ最多の6作品に出演している。
東映時代『隼の魔王』(1955年)

永田の言葉に激怒した千恵蔵は、比佐芳武らとともに「金田一耕助」シリーズで縁のある東横映画へ移籍した。昭和26年(1951年)に東京映画配給が東横と太泉映画を吸収合併し、東映が創立されると、千恵蔵は取締役に就任し、市川右太衛門とともに“重役兼トップスター”として会社を牽引していくことになった。以後の千恵蔵には、経営者としての視点から映画作品をとらえる姿勢が見られる。ほどなく占領時代は終わり、剣劇(チャンバラ時代劇)が解禁されることになるが、「多羅尾伴内」や「金田一耕助」「にっぽんGメン」など千恵蔵・比佐・松田たちトリオが戦後に開拓してきた大好評の現代劇シリーズも東映で引き続き活かされることになった。

昭和28年(1953年)、多羅尾伴内シリーズ再開第1作『片目の魔王』が比佐脚本・佐々木康監督・千恵蔵主演により東映京都撮影所で撮影され、花柳小菊千原しのぶ原健策加賀邦男・進藤英太郎ら東映時代劇初期の常連俳優たちが出演した。もともと「多羅尾伴内」などの現代ミステリ映画は剣劇禁止期間の代替作品であり、大映時代から京都で撮影されてきた。しかし、重役となった千恵蔵は「京都撮影所=時代劇、東京撮影所=現代劇」という役割分担を考慮したと考えられ、再開2作目以降はすべて東映東京撮影所(東京都練馬区東大泉)で撮影されることになった。東京撮影所に移ってからの出演者は、高倉健南原伸二波島進中原ひとみ江原真二郎佐久間良子・安宅淳子・中村雅子・山本麟一潮健二といった東映東京の新人俳優たちが多く出演、東映作品での相棒「大沢警部」は宇佐美淳也(宇佐美諄)・山形勲など東映東京の常連たちが交替で演じている。敵役の犯罪団のボス役は、名優進藤英太郎が当たり役。また、かつての黄金トリオの松田定次監督も東映随一の監督として活躍し、伴内シリーズも何本か手がけている。東映時代の作品では、昭和30年(1955年)の3作目『隼の魔王』(松田定次監督の復帰作)が特に評価が高い。日本映画極盛期である昭和33年(1958年)の東映6作目『十三の魔王』では、シリーズ初のカラー&大画面の「東映スコープ」となり、大女優の高峰三枝子がヒロイン、国際的名優の志村喬(東宝)が端役の悪党を演じるという豪華キャストであった。

内容的には、大映時代が試行錯誤の時期で変化に富んでいたのと比べると、東映時代はより定型パターン化が進み、さらに娯楽色が強まった。主人公自身の描写も、大映時代は陰影のある人間味を出していたが、東映時代の後期になるにつれて完全無欠なヒーロー像が固定化していった。それとともに、同時期に製作されていた東映時代劇における千恵蔵の十八番となった「遠山の金さん」シリーズとは互いに影響を及ぼしあってゆく。遠山の金さんが多羅尾伴内のごとく次々と変装をするかと思えば、多羅尾伴内は事件の大団円において遠山奉行のお白洲を思わせるような一段高い所から悪人どもの罪を裁き、金さんが桜吹雪の刺青を露わにするがごとくに多羅尾伴内は変装をかなぐり捨てて正体を現わすという具合である。もともと伴内シリーズは、時代劇のチャンバラを拳銃による銃撃戦に置き換えたものであるから、両者は同類のものと見ることもできる。ちなみに、東映・金田一耕助シリーズの『三つ首塔』(昭和31年、比佐脚本)でも、千恵蔵が演じる金田一耕助は僧侶に変装し、大団円でパッと変装をかなぐり捨てて金田一の正体を現わしている。

クライマックスの銃撃戦のシーンは大映時代のシリーズ初期からしばしば批判の的になっていた。チャンバラで刀を振り回し続けるように拳銃をひたすら撃ち続ける描写に対して、途中で銃弾の装填(弾込め)の場面がないのは不自然だというものであった。そこでシリーズ後期では、できるだけ弾込めの場面を盛り込むように工夫された。『隼の魔王』では、銃撃戦の最後に装填する銃弾が尽きて主人公が「しまった」と洩らした直後に警官隊が到着して助かるという演出の工夫が見られた。また、敵の銃弾が発射されてから主人公が身をかわすのが不自然だという批判もあったが、これはあえてリアルでない描写をすることによって映画の面白さを引き出そうとする松田定次監督の演出術であった[3]

昭和35年(1960年)、東映7作目『七つの顔の男だぜ』をもって、片岡千恵蔵主演の多羅尾伴内シリーズは事実上終了した。


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