多田智満子
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多田 智満子(ただ ちまこ、1930年[1] - 2003年1月23日[2])は、日本の詩人随筆家翻訳家フランス文学者福岡県出身[2]。本名、加藤智満子[2]目次

1 経歴

1.1 生い立ち(1930年 - 1955年)

1.2 初期の活動(1956年 - 1968年)

1.3 中期の活動(1969年 - 1986年)

1.4 後期の活動(1987年 - 2003年)


2 主な著書

2.1 詩歌集

2.2 随筆・エッセイ集


3 主な訳書

4 脚注

5 関連人物

6 外部リンク

経歴
生い立ち(1930年 - 1955年)

銀行員だった父の転勤に伴い、幼少期を京都東京などで過ごす。小学校5、6年で『プルタルコス英雄伝』や『平家物語』を愛読し、15歳で滋賀県愛知川沿いに戦争疎開した際にプラトンエピクテトスセネカなどを携えるなど、少女時代から異才を放っていた。また、謡曲歌舞伎にも親しんだ。桜蔭高等女学校を卒業後、東京女子大学外国語科で学び、矢川澄子と親交を結ぶ。卒業後に慶應義塾大学文学部英文科に編入学するも、結核に罹り半年間休学。病床での思索が自らの文学的出発点となった。矢川澄子岩淵達治らと同人誌『未定』を創刊、同誌にはのちに澁澤龍彦生田耕作らも参加する。
初期の活動(1956年 - 1968年)

1956年に第1詩集『花火』を書肆ユリイカから出版。悲哀と諧謔を秘めながら、あくまで清新な作品に、一部で注目を集めた。同年秋に結婚(夫君はのち会社社長)し、神戸六甲へ移り住み、終生その地で暮らすこととなる。関西では神谷美恵子のフランス語私塾の有力メンバーであり、1963年に創刊された神戸の同人誌『たうろす』に参加した(この同人誌には一時期、池内紀も参加している)。この頃、医師立会いによる向精神薬LSDの服用実験を受け、その幻覚体験を基に詩篇「薔薇宇宙」を制作。自らの宇宙観を形象化する、形而上的、幻想的な作風を確立した。1964年にこの詩を含む同名詩集を上梓。

同年にマルグリット・ユルスナール歴史小説ハドリアヌス帝の回想』を翻訳出版。夫が結婚前にニューヨーク滞在時の土産で渡されたのが翻訳のきっかけだったが、当初は大学時代の恩師白井浩司との共訳で出版される予定だった。だが多田の訳稿を読んだ白井は「一字も直す必要がないので、あなたの名前で出しなさい」と多田単独訳を薦めた。実際、この翻訳本の反響は大きく、多田の硬質にして華麗な訳文を読み三島由紀夫は「多田智満子さんって……あれは、ほんとは男なんだろ」と信じて疑わず、塚本邦雄は「非の打ち所がない」と絶賛した。

3年後の1967年『讃』、『遠征』などを収めたサン=ジョン・ペルス詩集の翻訳を出版するが、精神医学転向直後にこの訳詩集を手にした中井久夫は、「むいたばかりの果実のように汚れがなくて、滴るばかりにみずみずしかった」と述懐している。翌1968年に、野中ユリの装丁による第4詩集『鏡の町あるいは眼の森』を上梓した。
中期の活動(1969年 - 1986年)

1972年に第5詩集『贋の年代記』を出版したが、「暮念勧世音」と題した作品も所収されていることからも分かるように、この頃から多田は仏典漢籍、日本古典などに関心を広げ、特に華厳経に大きな興味を示した。1975年に、夢を題材にした幻想的な散文詩集『四面道』を上梓する一方、初の歌集『水姻』を出版する。翌年には、のちに『古寺の甍』にまとめられる古都紀行の連載を始めるなど、内容、形式両面で幅を広げた時期である。翻訳では『火』、『東方奇譚』などのユルスナール作品に加え、アントナン・アルトーの『ヘリオガバルス』、マルセル・シュウォッブの『少年十字軍』など、多彩な作品を訳す。


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