多治見電灯所
[Wikipedia|▼Menu]

中部電力株式会社
(旧・合名会社多治見電灯所)
種類株式会社
本社所在地 岐阜県土岐郡多治見町1238番地[1]
設立1924年(大正13年)1月27日[2]
1906年10月創業)
解散1930年(昭和5年)8月25日[3]
中部電力〈岡崎〉へ合併し解散)
業種電気
事業内容電気供給事業
代表者杉浦銀蔵(社長)・加藤乙三郎(専務)
公称資本金200万円
払込資本金120万円
株式数4万株(額面50円)
総資産225万1734円(未払込資本金除く)
収入27万3488円
支出20万9108円
純利益6万4379円
配当率年率9.0%
株主数19名
主要株主岡崎電灯 (47.5%)、加藤乙三郎 (19.0%)
決算期3月末・9月末(年2回)
特記事項:代表者以下は1930年3月期決算時点[4]
テンプレートを表示

合名会社多治見電灯所(ごうめいかいしゃ たじみでんとうしょ)は、明治末期から大正にかけて存在した日本の電力会社である。現在の岐阜県多治見市に本社を置き、東濃地方西部に電気を供給した。

元は雑貨商加藤喜平の個人経営による事業で、1906年(明治39年)に開業。1910年(明治43年)に合名会社化され、小会社のまま事業を拡大した。1924年(大正13年)に岡崎電灯との提携によって株式会社化され中部電力株式会社と称す。1930年昭和5年)に岡崎電灯が改組した同名の会社に合併され消滅した。

株式会社化後の中部電力は、1951年発足の中部電力の管内に存在した事業者であるが、直接的な繋がりはない。同社や合併相手となった岡崎の中部電力と区別するためにしばしば「中部電力(多治見)」と表記される。
沿革
開業

多治見電灯所の創業者は、岐阜県土岐郡多治見町(現・多治見市)で雑貨商「北丸屋」を営む加藤喜平(2代目、1928年没)である[5]。喜平は家業の傍ら土岐川(庄内川)支流の生田川に水車を所有して陶土の粉砕を手掛けていたところ、豪雨のたびに水車が流出するのを見て電気動力の利用を思い立ったという[6]。喜平は京都市蹴上発電所を視察するなど研究を重ね、1902年(明治35年)4月に電気事業の経営を出願、9月29日にその許可を得た[6]

許可を得た喜平は、多治見と東隣の土岐津町(現・土岐市)の境界付近に位置する土岐川の狭窄部(「川戸峡」と呼ばれる)にて水力発電所の建設に取り掛かった[6]。事業には、喜平の弟加藤乙三郎(初代、1864 - 1926年)夫妻も参加[5]。工事中の1904年(明治37年)7月には弟夫婦の間に後に中部電力第3代社長となる輝三郎(1926年2代目乙三郎を襲名、1989年没)が生まれている[5]。発電所工事は難工事続きで、資金面でも建設資金が尽きて加藤家では家財の処分を余儀なくされたという[5]。発電所は1906年(明治39年)に竣工[5]。同年1月からは電灯供給の申込み受付を開始し、配電工事に着手した[6]。そして同年10月18日開業に至った(逓信省の資料に基づく[7]。『多治見市史』では9月29日に初めて点灯とある[6])。

開業時の供給区域は多治見町と隣の可児郡豊岡町のうち市街地のみで、1906年末時点での電灯取付数は1,030灯であった[6]。また同年11月30日、加藤景光をたたえる「美濃陶祖碑」の建碑式が多治見の平野公園で開催された際、碑にイルミネーションを施し、町中の祝賀行事に賑わいを添えた[6]。平野公園は高台にあるため離れた集落からもその明かりが見えたという[6]
合名会社時代

1910年(明治43年)7月、「合名会社多治見電灯所」が加藤喜平から事業を譲り受けた[8][9]。同社は2年先立つ1908年(明治41年)6月2日付で多治見町に設立されたもので、加藤喜平・乙三郎兄弟が計5万円を出資[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef