多治比 真宗(たじひ の まむね、神護景雲3年(769年) - 弘仁14年6月11日(823年7月22日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての桓武天皇の夫人。参議多治比長野の娘。官位は正三位。目次 延暦5年(786年)には所生の葛原親王が生まれているので、この頃までには桓武天皇に入内している。『一代要記』によると、延暦16年(797年)に従三位に叙され、夫人となったという。後宮では葛原親王をはじめ六親王を生んだ。 その後、息子の佐味親王と同居していた頃には、藤原仲成が妻(笠江人の娘)の叔母に言い寄り、それを嫌った叔母が真宗と佐味親王の邸に逃げこむと、仲成はそこにあがりこみ暴行を加えた、ということがあった[1]。弘仁14年(823年)に死去。正二位を追贈された[2]。葬儀に際して、四位2人、五位5人、六位以下11人からなる葬司が任命され[3]、淳和天皇が詔りしている(内容は不明)[4]。
1 生涯
2 系譜
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
生涯
系譜
父:多治比長野
母:不詳
夫:桓武天皇
皇子:葛原親王(786年 - 853年)
皇子:佐味親王(793年 - 825年)
皇子:賀陽親王(794年 - 871年)
皇子:大徳親王
皇女:因幡内親王
葛原親王は桓武平氏の祖となった。 [脚注の使い方]
脚注
^ 『日本後紀』弘仁元年(810年)九月戊申(11日)条(藤原仲成薨伝)
^ 『日本後紀』弘仁14年(823年)六月甲午(11日)条
^ 『日本後紀』弘仁14年(823年)六月丙申(13日)条
^ 『日本後紀』弘仁14年(823年)六月丁酉(14日)条
参考文献
森田悌訳「日本後紀」(上中下巻)講談社学術文庫、2006年 ISBN 9784061597877 (上巻)/ISBN 9784061597884 (中巻)/ISBN 9784061597891 (下巻)
関連項目
多治比氏
更新日時:2022年1月23日(日)04:40
取得日時:2022/04/25 09:55