多文化主義
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多文化主義(たぶんかしゅぎ、: multiculturalism)という用語は、政治哲学社会学や日常生活では、基本的に「民族多元主義」と同義語である。他にも大きな集団内にある小さな集団が、異なる文化でありながらも大きな集団に馴染んでいることを意味する、文化多元主義を意味することもある[1]

政治哲学としての多文化主義には、様々なイデオロギーや政策がある[2]。多文化主義は「サラダボウル」や「文化的モザイク」と表現され[3]、「人種のるつぼ」とは対照的である[4]。ある国家内で異民族の文化を等しく尊重し、異民族の共存を積極的に図っていこうとする思想、運動、政策[5]
概要

多文化主義への懐疑や否定は、グローバリゼーション派やアイデンティティ政治派らは「反リベラルだとバッシングを受け、タブーとされてきた。しかし、移民先への同化させない「寛容」な多文化主義政策は、結局はイスラム教圏をルーツに持つ人々を中心に、移民先で世俗的先進国の現地語や文化にも習得せず、移民元の「氏族社会」や法体系を維持し、宗教やテロ思想に傾倒する非世俗主義者が多数出て、移民先社会の分断を生んだ。移民先社会への統合の失敗、福祉などによる財政的負担増加、国内における社会結束の亀裂・相互信頼の揺らぎは、移民先先進国におけるリベラリズム・世俗主義・民主主義・言論の自由という考えをも脅かしている。「多文化主義」を推進した欧州の国では、主に居住国の価値観よりムスリムコミュニティーを重視する移民との文化戦争から、2010年代に多文化主義や「ダイバーシティを尊重」は失敗だったと判明した各先進国で、方向転換や批判政党の台頭が起こっている[6][7][8][9]

知識人層は、イスラム教圏からの移民出身者も、移民先の先進国で長年暮らすと、「自由民主主義的価値観になじみ、それを受容するはず」と想定していた。しかし、実際には、彼等のかなりが言論の自由や男女平等など移民先国との価値観を共有せず、宗教を優先している。欧州の学者やマスコミは、「政治的な正しさ」(ポリティカル・コレクトネス)に過敏になっており、「移民受け入れ」に肯定的意見や調査結果は積極的に報道する一方、否定的なものには「報道しない自由」を行使してきた。旧来の欧州の価値観を共有しない非世俗主義移民の増加で、自由民主主義や世俗主義の欧州は自死を遂げつつある[10]
政策としての事例

多文化主義は、1970年代から、数カ国で政策に適用されてきた。国によって、その理由はさまざまである。
カナダカナダ・トロントにある多文化主義の記念碑
同一の彫刻が4つ存在しており、その彫刻は南アフリカのバッファローシティ(英語版)にある

カナダにおける多文化主義の考え方が初めて明確に述べられたのは1964年カナダ進歩保守党の上院議員ポール・ユージック(英語版)の上院議会における初演説の中であった。また、主にケベック州のみに集中しているフランス語話者の不満に応える形で1963年、政府はカナダ王立委員会を開き、二言語及び二文化問題(英語版)についての検討を重ねた。この動きを受けて1971年に多文化主義が正式に政策として採用された。王立委員会は報告書の中で、「カナダ政府はカナダが二言語及び二文化によって構成される社会であることを認識し、この性格を維持するための政策を実施すべきである」と提唱した。

その後、この二文化主義(英語版)は多方面からの批判に晒されることになった。確かにインドでは既に多文化主義が採り入れられていたが、西洋諸国では前例がなく、カナダが初めて採用することになったためである。

進歩保守党の党首ジョン・ディーフェンベーカーは、多文化主義がカナダ固有の文化や伝統を守っていこうとする自身の姿勢と相反するものとみなしていた。また、当時はケベック・ナショナリズム(英語版)に惹かれる若いフランス語話者が増え続けていたが、二文化主義はこうした若者たちを満足させるものでもなかった。

英語やフランス語といった言語圏を問わず、多くのカナダ人が二ヶ国語を併用する二文化主義の新政策を嫌っていたが、最大の反対勢力は英語系でもフランス語系でもなく、いわゆる「第三勢力」と呼ばれた異文化を持つ少数派のカナダ人であった。カナダ西部の州におけるフランス語話者の人口は、その他の言語話者(北京語といった中国系、ヒンディー語といったインド系、日本語といった東アジア系など)と比べると少数であり、二文化主義が現実に即しているとは言えなかった。こういった少数派の便宜を図るため、政策の基本方針は「二言語二文化主義」から「二言語多文化主義」へと移った。

自由党政権のピエール・トルドー1971年10月8日、下院にて「二言語の骨格に収まる多文化主義政策実施の声明」を発表。ブライアン・マルルーニー率いる進歩保守党政権が1998年7月21日に勅許を受けて可決した多文化主義に関する決議書(英語版)の先駆けとなった。

実務レベルでは、連邦政府によって各少数民族に対する文化保護を目的とした基金の交付が開始された。基金の主な支援先としては、民族舞踊の競技会や各民族のための交流施設の建造などが挙げられる。これらはトルドーが掲げた「公平な社会」の実現を目的としたものというより、単に選挙の得票目当てであったのではないかと言う批判を呼んでいる。ブライアン・マルルーニー率いる進歩保守党が1984年の選挙で勝利した後にも、多文化主義政策が覆ることはなかった。ただし、マルルーニー政権発足以前から進歩保守党の党員らは、政権が党是であるカナダ固有の文化と伝統を保持する姿勢と乖離していることを批判していた。特にトリニダード・トバゴ出身の知識人ニール・ビスーンダス(英語版)は、多文化主義を政府の基本方針とすることに反対している[11]


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