多摩ニュータウン
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この項目では、東京都の街について説明しています。テレビ埼玉(テレ玉)制作のテレビ番組については「玉ニュータウン」をご覧ください。

多摩ニュータウン
Tama New Town
ニュータウン
多摩センター周辺の街並み(2023年)

 日本
都道府県 東京都
市町村 稲城市
多摩市
八王子市
町田市
開発期間1966年7月 - 2006年3月
東京都・日本住宅公団(現 独立行政法人 都市再生機構が承継)・東京都住宅供給公社 ・稲城市・民間の土地区画整理組合によって施行[1][2]
名の由来多摩丘陵の位置に造成
面積[3]
新住宅市街地開発事業 2,217.4 ha
土地区画整理事業00000666.5 ha
 ? 合計(計画面積[2])2,883.9 ha
人口(住民基本台帳)2021年令和3年)10月1日現在[4]
稲城市区域 26,069人 多摩市区域 97,790人
八王子市区域 86,925人 町田市区域 12,989人
 ? 合計223,773人
出典:[2]

多摩ニュータウン(たまニュータウン、: Tama New Town)は、東京都稲城市多摩市八王子市町田市にまたがる多摩丘陵に計画・開発された日本最大規模のニュータウンである[5]
概要

東京郊外の大規模ベッドタウンとして多摩丘陵を切り開いて開発された。国内の大規模ニュータウンとしては、他に千里ニュータウン大阪府)、港北ニュータウン神奈川県)、千葉ニュータウン千葉県)、高蔵寺ニュータウン愛知県)などが挙げられる。

開発主体は、都市再生機構(UR)、東京都東京都住宅供給公社稲城市土地区画整理組合と多岐にわたる。区域は東京都の稲城市多摩市八王子市町田市の4市にまたがる面積約2,884ヘクタールで、主に京王相模原線稲城駅から多摩境駅に沿った東西約15km、南北約5kmに広がっており、新宿駅から電車で25?40分ほどの場所に位置している。多摩センター駅南側のエリアがニュータウンの中心的な地区「都市センター」としての役割を持ち、各駅ごとに商業施設などが整備されている。計画的に緑地が多く配置され、また多摩丘陵の地形を生かして駅から住宅地や主要な施設まで歩行者専用道路(ペデストリアンデッキ)を通ってアクセスが可能であり、多くの部分で歩車分離が実現しているという特徴がある。

計画の当初は高度経済成長期の東京の深刻な住宅不足を背景に団地住宅の大量供給を目指していたが、1973年オイルショックを契機に地方から東京への人口流入のペースが落ち着き、量から質への転換が行われた[6]。計画人口や人口密度の目標が引き下げられ、画一的な大規模団地だけでなく、タウンハウスや戸建住宅など、多種多様なタイプの住宅が供給されるようになった。基本方針としては、すぐれた自然環境と調和した良好な居住環境を備えた住機能の充実と、教育、文化、業務、商業の機能を備えた活力ある新市街地の形成を図るものとしている。また、多摩地域の自立化を推進する拠点都市として、広域的な都市機能を充実し、周辺地域と連携した複合都市づくりを目指している[7]。第1次入居は1971年3月26日永山駅南側の諏訪・永山地区において開始された。

また、多摩丘陵の自然と地形をいかしながら自動車交通と立体分離された緑豊かな歩行者専用道路のネットワークを整備し、周辺地域との融和を図り、優れた住環境を整えた魅力ある都市づくりを心掛け、「安全なまち」「健康なまち」「利便性のあるまち」「快適なまち」「文化的なまち」の形成が目標とされた[8]

他のニュータウンと同様に街の建造とともに一気に30?40代の子育て世代が入居するため、年齢構成が他の郊外の街と比べても偏っているという課題がある。またその子どもたちは成人後に独立し、ニュータウンに帰ってこないことが多い。さらに、団地などの住宅も建設時期が一定の時期に集中しているため、一気に街全体の施設が老朽化しやすい。そのため、諏訪・永山地区などオイルショック以前に住宅の大量供給を目的に分譲された地区は経年劣化による団地の老朽化や間取り・設備の陳腐化により住民の急激な高齢化が発生している[9]。ただし、長期間に渡る開発により地区によって開発時期が大きく異なっているため、多摩ニュータウン全体が老朽化・高齢化という問題を抱えているわけではなく、地区によってその問題の程度・様態はバラバラである。こういった問題に対して、諏訪・永山地区の諏訪2丁目では複数棟の団地を一括で建て替える日本最大級の大規模な団地リニューアルが行われ、「ブリリア多摩ニュータウン」(東京建物)として間取り・設備の現代化と住民の年齢構成の平準化を図っている[10]
施行事業一覧

多摩ニュータウンは下記の事業区域で構成される[11]。これらは1966年[1]に事業着手して以来、18次に及ぶ都市計画の決定・変更を重ね、段階的に整備がすすめられた。

新住宅市街地開発事業

第1?8住区、第10?13住区、第19住区 - 都市再生機構施行

第14?18住区、第20住区、第21住区 - 東京都施行

第9住区 - 東京都住宅供給公社施行



土地区画整理事業

多摩土地区画整理事業 - 東京都施行

由木土地区画整理事業 - 東京都施行

相原・小山土地区画整理事業 - 東京都施行

小野路第一土地区画整理事業 - 東京都施行

小野路第二土地区画整理事業 - 東京都施行

小野路第三土地区画整理事業 - 東京都施行

堂ヶ谷戸土地区画整理事業 - 都市再生機構施行

百村土地区画整理事業 - 稲城市施行

竪台土地区画整理事業 - 竪台土地区画整理組合施行

多摩ニュータウンの事業区域
歴史


左:1979年(昭和54年)と、右:1989年(平成元年)の京王堀之内駅周辺。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

開発のはじまり

戦後の高度経済成長期、東京区部での深刻な住宅難にともなって地価は著しく上昇し、その結果として地価の安かった市部が急速に宅地造成されていったが、民間の無計画な開発はスプロール化をもたらした[7]。また、当時は違法な宅地造成が56%を占める状況であった[12]。そのなかで、このような乱開発を防止するとともに、居住環境の良好な宅地を大量に供給することを目的として、多摩ニュータウンが計画された[7]

開発に当たって、制定されたばかりの新住宅市街地開発法に基づいた初めての事業認可・承認のための申請作業が進められたが、多摩ニュータウン区域内には土地に強い愛着を有する約2000戸に及ぶ農家集落があり、これを全面買収することは困難であった。そして1966年1月の地元住民から既存集落の区域除外の要望を受けて、同年11月に東京都は「新住宅市街地開発事業との関係から施行が急がれるので、この区域は、東京都が施行者となって土地区画整理事業によって整備する」という方針が決定し、土地区画整理事業と併用して開発することとなった。そのため、街づくりの基本概念となる後述の近隣住区理論を実践するに当たり、歩行者専用道路網などが一部途切れて空間構成に矛盾を生じることになったが、他方、街の形成に自由度を残した多様性をもたらした[13]

法的手続きの経過としては下記の通りである[14]

1963年(昭和38年)11月 南多摩地域の都市計画区域決定

1964年(昭和39年)5月 多摩新都市開発計画の基本方針の決定

1964年(昭和39年)7月 多摩ニュータウンに関わる用途地域、街路計画の決定告示

1964年(昭和39年)10月?1965年(昭和40年)12月 農林省協議

1965年(昭和40年)12月 多摩ニュータウン新住宅市街地開発事業計画区域決定

1966年(昭和41年)12月 多摩ニュータウン事業決定、土地区画整理事業区域決定

こうして多摩ニュータウン事業が始まった。

しかし一時は、東京都知事に初の革新都政となる美濃部亮吉が当選し、その就任第一声が「東京都は多摩ニュータウンから手を引く」であったため、計画は暗雲に包まれた。多摩ニュータウンの主要なインフラ整備に東京都は不可欠であったが、就任直後にその予算は凍結されてしまった[15]。これは結局、東京都は住宅金融公庫からの借り入れで既に西部地区(南大沢駅を中心とする区域)の百万坪を取得していたため、事業から手を引くことは困難で、事業は継続されることとなった[16]
第一次入居と鉄道開通開発初期に建設された団地
(東京都多摩市愛宕二丁目)

1971年、多摩ニュータウンの最初の入居が永山駅南側の諏訪・永山地区で行われた。この地区はもともと別の開発計画として存在し、早期から買収が進んでいた日本住宅公団の「聖蹟桜ヶ丘地区」であったが、多摩ニュータウンに組み入れられた[17]。こうして、この地区を中心にオイルショックまでの3年間に約8千5百戸あまりの住宅が供給され、1974年に多摩ニュータウンの人口は3万人に達した[18]。このころに供給された住宅は、他の多くの地区とは違い公的賃貸住宅を中心としているほか、住宅不足の解消を目的とした画一的な仕様の住宅であり、間取りや設備などの面で現代の住宅ニーズから乖離した物件が多いためその後の高齢化の温床となることになる[19]

なお、この時点では諏訪・永山地区まで鉄道が開通しておらず、住民は2km以上先の京王線聖蹟桜ヶ丘駅等まで路線バスやタクシーでの移動を強いられた[20]。乗り入れ認可を受けていた当時の京王帝都電鉄小田急電鉄は、新線建設の費用のほか多摩ニュータウン方面からの輸送量増加に伴う在来区間の複々線化の費用が掛かるとなると、とても採算が取れないとしていて、国や都に用地の無償提供などを求めて建設を中断していたためであった[21]。最終的には、日本鉄道建設公団が私鉄事業者の鉄道施設を建設し、完成後に25年の割賦で事業者に譲渡するという方策がとられることとなり、小田急線が1974年6月に小田急永山駅まで、続いて京王線が同年10月に京王多摩センター駅まで開通し、小田急も翌1975年に小田急多摩センター駅まで開通した。「日本鉄道建設公団#P線」、「小田急多摩線#多摩ニュータウン開発と多摩線の建設」、および「京王相模原線#多摩ニュータウンへの延伸」も参照
オイルショックと計画の転換

1974年オイルショック高度経済成長は終焉し、大都市圏で旺盛だった住宅需要は一気に落ち込んだ。


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