多布施川
[Wikipedia|▼Menu]

多布施川
新長瀬橋から下流方(地図地点2の北側
水系一級水系 嘉瀬川
種別一級河川
延長9.5 km
水源嘉瀬川
河口・合流先八田江
流域 日本 佐賀県佐賀市
テンプレートを表示
 流路。1.石井樋、2.多布施川河畔公園、3.浄水場、4.神野公園、5.天祐寺川分派、6.アカマツ、7.多布施反射炉跡、8.護国神社・遊泳場、9.城内

多布施川(たふせがわ)は、嘉瀬川(川上川[注 1])から佐賀県佐賀市大和町尼寺で分岐し佐賀市中心部に流れる川。

流路延長は9.5km[2][3]。両岸に遊歩道や桜並木などの河畔公園が整備されている[4][5][6]

江戸初期、成富兵庫茂安が石井樋(いしいび)を築いて嘉瀬川本流からの水量を調整、佐賀城の濠までを繋ぎ、城下の飲料水や近郊水田地帯の灌漑用水を確保するとともに佐賀平野の水害防止を図った[2]。かつては川上(大和町川上の都渡城)と佐賀城下を結ぶ水運路として人や物資を運んだ[2]。地下水を水源とする上水道の開設により大正から昭和前半までの一時期は飲料水源ではなくなったが、現在は再び佐賀市の上水道の水源となっている[7][2]
歴史
石井樋築造以前

多布施川は完全な人工河川ではなく、茂安の石井樋築造以前からもともとあった川を改修したものと考えられている。鎌倉時代の文書に「北村[注 2]から多布施[注 3]に通ずる分水」の記述があり、また佐賀藩の資料にも「元亀二年(1571年)北村の井関[注 4]普請云々」の記述がある[8]

石井樋築造以前から灌漑用水や舟運に利用されていたが、洪水で井堰が壊れるなどの理由で用水確保が困難であったと考えられる[8]。そもそも、分派元の嘉瀬川は佐賀平野の代表的河川であって脊振山地の出口で扇状地を形成しているように、洪水のたびに流路を変え、佐賀平野に幾筋もの旧河道を残したとされる。現在の佐賀市中心部には、多布施川に沿い南北に細長い自然堤防、その端に繋がって佐賀城跡を中心に東西に長い微高地が分布するが、『佐賀平野の水と土』によれば、嘉瀬川の堆積させた土砂と、有明海の大きな潮汐で旧海岸沿いに堆積する泥とが重なった結果であるという[9]

多布施川本流は、石井樋から市内を南下、市街地に入り長崎本線の鉄橋付近で天祐寺川を分流、十間堀川(佐賀城外曲輪)を超えて護国神社前を通り、北御門付近で佐賀城内に入る。佐賀城を囲む濠は川の下を潜り交差する。城内では各屋敷地に配水できるよう何度も曲がり、一部北に流れる区間を挟み、東濠を超え、武家地の水ヶ江を経て、市街地南東部で八田江に合流する[10][11][12][注 5]

なお、川の名前の由来となっている多布施は佐賀城下のかつての町人町[14]で天祐寺川が分岐する辺りにあり、現在は佐賀市多布施1 - 3丁目として名が残っている。
石井樋築造と河道整備石井樋の空中写真と説明(国土地理院の空中写真に加筆)石井樋(地図1

石井樋の築造工事は、『疎導要書』によると、佐賀城建設・城下町割り[注 6]の後、元和年間(1615-1624年)と寛永年間(1624-1644年)を跨ぐいずれかの12年間(年は特定されていない)にかけて行われた。工事には農民らが動員されたが、農繁期を避ける配慮があったという[8][12]

なお、「石井樋」は本来、石造の樋門の本体だけを指すが、嘉瀬川・多布施川の当該施設に関しては、施設全体も「石井樋」と総称するのが慣例となっている[15]
石井樋の仕組み

石井樋は、用水を取り入れる役割、しかも上流が花崗岩質のため川砂の多い水から、土砂を沈殿させて澄んだ上水のみを取り入れる必要があった。一方、渇水の時にも城下へ一定量の水を確保する必要があった。さらに城下町の洪水を防ぐ役割を持ちつつ、洪水でも施設自体が破損しにくく長持ちする工夫がなされている。これらは、江戸初期の日本としては最先端の技術により実現されている。なお、その事績は、佐賀藩士南部長恒が200年を経て茂安の諸事業を調査しまとめた水利誌『疎導要書』(1834年(天保5年)著)や、平成の復元工事に際しての発掘調査などにより明らかになったものである[16][17]

脊振山地の出口から流れ下ってきた嘉瀬川(川上川)の水は、まず施設の手前で、広くなった河道や左岸の「荒籠」で流れを緩め、土砂を沈殿させる。次いで「象の鼻」により川幅が一旦狭まり、水は川を横断する堰「大井手堰」に一部堰き止められる。左岸にはバイパスのような形の水路があって、堰き止められた水がここに流れ込む。入り組んだ形の「象の鼻」「天狗の鼻」の間をゆっくりと蛇行しながらさらに土砂を振り落とされ、「石井樋」の樋門をくぐって多布施川へと流れる。余水は次の「二の井手堰」により農業用水路の「岸川作水」にさらに分岐、その余水は嘉瀬川本流へと戻る[17][16]

荒籠(あらこ) - 堰の上流左岸に設けられた石積みの水制。水流を弱めて砂を沈め、また洪水の勢いを弱める役割をもつ。「兵庫荒籠」「遷宮荒籠」の名が付けられている。『疎導要書』に記されているだけで現存しなかったが、発掘調査で存在が確認された[16][17]

大井手堰 - 嘉瀬川(川上川)川を横断する堰の本体。当初は乱杭を打ち土俵で水を溜める構造(洪水時には壊して放流する)だったが、18世紀半ばに石積みの堰に戸立(仕切り板)を立てる構造(洪水時には仕切り板を外す)となった。長さ約90m、幅約15m、高さ約1.4m。1953年(昭和28年)にコンクリート造に改修されたが、1963年(昭和38年)の台風による洪水で破損し、平成の復元工事までの間は機能を損なったままとなっていた[16][17][18]

象の鼻 - 堰の上流左岸に設けられた石積みの水制。岸から中央に向かって弧長70m余、細長く象の鼻のように突き出る。強い水流に晒されるため補修が繰り返されてきた。付け根に野越しがあり、洪水の際は野越しを溢れた水が石井樋本体に向かう水とぶつかって勢いを弱める仕組み[16][17]

天狗の鼻 - 堰の上流左岸に設けられた石積みの水制。象の鼻のすぐ下流、中の島から象の鼻の内側に向かって長さ30m余細長く突き出る[16][17]

石井樋(本体) - 多布施川に水を送るための、石造の樋門。底は石積み、側面と天井は板石。水平方向の奥行き10.3m、幅約1.5m、高さ約1.0m。石閘(水門)3つ1組みであり、俗には「三丁井樋」と呼ばれる。真ん中の石閘の天井石には、寛文10年(1670年)修復を行ったことを示す銘が刻まれている[16][17]

二の井手堰 - 農業用水路の「岸川作水」に水を送るための樋門。岸川作水は現存せず、現在は樋門として使用していない[16][17]

中の島 - 本流と水路に挟まれた中洲。番宅が設けられ、取り締まる藩士と井樋番が配置されていた[19]

堤防の野越し・尼寺林 - 堰の上流にあり、洪水の際に機能する。堤防本堤の所々に低い部分(野越し)を設けて洪水を放流させる。本堤の外側には副堤があり、間には「尼寺林」と呼ばれる5ヘクタール(ha)に及ぶ竹林を作った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef