多家神社
拝殿
所在地広島県安芸郡府中町宮の町3丁目
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分45.26秒 東経132度30分36.91秒 / 北緯34.3959056度 東経132.5102528度 / 34.3959056; 132.5102528 (多家神社)
多家神社(たけじんじゃ)は、広島県安芸郡府中町にある神社。式内社(名神大社)後継社、安芸国総社後継社。旧社格は県社。
別名として「埃宮(えのみや)」[注釈 1]とも。社名の「多家」を現在は「たけ」と訓ませているが、本来は「おおいえ」と訓んでいたとも考えられ、またかつては「たが」などとも訓んでいた。 式内名神大社「安芸国安芸郡 多家神社」の後継神社として、明治6年(1873年)に創祀された。 社伝では、式内多家神社は神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮
祭神
主祭神
神武天皇
安芸津彦命 - 安芸国の開祖神とされる。
相殿神
神功皇后
応神天皇
大己貴命
歴史
中世には武士の抗争により社勢が衰退し、所在がわからなくなった。江戸時代になると、境内社に「たけい社」のあった「松崎八幡宮」と、安芸国総社である「総社」が式内多家神社の後裔社を主張し、論争となった。結局、明治6年両社を廃止し、現在地の「誰曽廼森(たれそのもり)」に社殿を造営して、両社で祀られていた神を祀る「多家神社」が新たに創建された。この際、両社に伝わる古記は、後の争いを避けるために全て焼却されたという。翌明治7年に県社に列格した。 式内多家神社の神階の変遷。 現鎮座地の「誰曽廼森」という名前は、神武天皇の滞在時に「曽は誰そ」と訊ねたことによるものである。 宝蔵は桁行梁間共1間の入母屋造平入檜皮葺、向拝(こうはい)を付け、中には神輿が納められている。同じく旧稲荷社から移築され大正の火災を免れた建物で、広島城関係の遺構としては現存する唯一のものであり、江戸時代初期の元和年間(17世紀前期)に浅野氏が広島入封当時に建立されたものと言われる。校倉造の校子(あぜこ)組手を四角形とする極めて異例のものとなっている[1]。昭和29年(1954年)に県重要文化財に指定された。 交通アクセス
神階
天安3年(859年)1月27日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)- 表記は「多家神」。
貞観元年(859年)4月27日、従四位下 (『日本三代実録』)- 表記は「多家神」。
境内
本殿
拝殿
宝蔵(広島県指定文化財)
宝蔵の校子組手
社務所
総社趾碑(総社会館前)
摂末社
貴船神社 - 祭神:高?神、別雷神、大山津見神
天神社
貴船神社
天神社
文化財
広島県指定文化財
重要文化財(有形文化財)
宝蔵(附 神輿1基)(建造物) - 1954年(昭和29年)4月23日指定。
現地情報
西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線 天神川駅(徒歩約20分)