多号作戦(たごうさくせん)は、大東亜戦争末期のフィリピンの戦いで[1]、日本陸軍と日本海軍が協同で実施したレイテ増援輸送作戦のこと[2][3]。主な揚陸地の名をとりオルモック輸送作戦とも呼ばれる。1944年(昭和19年)10月末から12月上旬まで、レイテ島地上戦にともなうレイテ島西岸オルモックへの増援部隊輸送を第1次(当初は鈴二号作戦と呼称)から第9次作戦まで繰り返された[4][5]。第10次作戦も予定していたが、12月15日の連合軍ミンドロ島上陸にともなうミンドロ島地上戦の生起により、多号作戦は中止された[1][5]。 1944年(昭和19年)10月17日、連合軍はレイテ湾に集結して上陸作戦を開始[6](ダグラス・マッカーサー将軍によるレイテ島上陸は20日)[7][8]、フィリピンの戦いにおけるレイテ島地上戦がはじまる[9][10]。日本軍は捷一号作戦を発動し[11][12]、日本海軍は連合艦隊の大部分を投入したが大損害を受けた[13](レイテ沖海戦)[14][15]。一方、台湾沖航空戦で日本海軍が発表した大戦果を信じた日本陸軍は[16][17]、従来のルソン島地上決戦の方針を転換し[18][19]、レイテ島地上決戦に切りかえた[20][21]。日本陸軍(中央・現地軍)は海上決戦に期待しておらず、独力でレイテ地上決戦を進めることにした[22]。10月27日、昭和天皇は第四航空軍の奮闘を誉めると共に、「地上戦で連合軍を撃滅しなければ勝ったとはいえない」と強調した[23]。 レイテ島への最初の増援輸送は、第35軍(司令官:鈴木宗作陸軍中将)が10月19日に発動した鈴二号作戦にともない、第16戦隊司令官左近允尚正海軍中将の指揮で行われた[24]。だが、作戦開始前の10月23日にマニラ沖合で重巡洋艦青葉(第16戦隊旗艦)がアメリカ軍潜水艦の雷撃で大破する[25][26]。残る2隻(軽巡洋艦鬼怒(第16戦隊旗艦)・駆逐艦浦波)と輸送艦5隻による第二遊撃部隊警戒部隊は、ミンダナオ島カガヤンからレイテ島西岸オルモックへの増援作戦を行う[27]。輸送部隊は10月26日朝に到着、揚陸に成功した[24]。だが帰路でアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、鬼怒と浦波が沈没した[28][29]。また鬼怒救援のため派遣された駆逐艦不知火(第18駆逐隊)も、空襲で撃沈された[29][30]。 10月29日、南西方面艦隊によりレイテ島増援輸送作戦多号作戦が発動される[2]。この計画は第2次と第3次作戦からなり、10月下旬から11月上旬までに実施、レイテ島のアメリカ軍飛行場が本格始動する前に速やかに輸送作戦を行うことを考えていた[2]。
概要