『外套』(がいとう、Il tabarro )は、ジャコモ・プッチーニの作曲した全1幕のオペラである。パリ・セーヌ河畔に暮らす荷物船の老船長が、若い妻を巡る争いがもとで部下の若者を殺すさまをショッキングに描く。傾向の異なった3つの一幕物オペラを連続して同時に上演する「三部作」の最初の演目として、1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演された。 1913年、パリを訪れていたプッチーニは、同地で1910年からロングラン上演されていたディディエ・ゴルドの舞台劇『外套』を観た。それはパリ・セーヌ河の荷物船船上で生活する人々の愛憎模様と、そこで発生したショッキングな殺人[1]を題材とするものだった。彼はこの劇を気に入り、早速、長年共同関係にあった台本作家ルイージ・イッリカにオペラ化権の確保と台本作成検討を要請する書簡[2]を送っている。同書簡中でプッチーニは、 「これは確かにどこから見てもアパッシュだ。殆ど、いや殆どどころでない完全なグラン・ギニョールだ。しかしそんなことはどうでもいい。僕はこの芝居が気に入った。とても効果的だと思う。ただ、このどぎつく真っ赤な鮮血と釣り合いをとる意味で、何か完全に違った性質の題材が必要だ。僕は今それを探している。」 と述べている。注目されるのは、この1913年の時点ですでにプッチーニが『外套』を単一のオペラとしてでなく、別作品と組み合せて上演するべきものと最初から考えていることである。彼が長年温めていた「傾向の異なるいくつかの短篇オペラを一夜で上演する」という「三部作」構想がこうして具体的にスタートした。 もっとも、イッリカとの作業はその後進展することはなかった。気性の激しいプッチーニとイッリカの「かすがい」役を果たしていたジュゼッペ・ジャコーザが1906年に亡くなった後2人の仲はしっくりいっていなかったし、別件で、マリー・アントワネットを題材とするオペラをプッチーニが依頼したにもかかわらずイッリカが着手できなかったこと、そして1914年に第一次世界大戦が勃発、イタリアがドイツ・オーストリア側に宣戦するに及び、ドイツ贔屓として有名だったプッチーニと、愛国心旺盛でイタリアの対独宣戦を熱烈に支持したイッリカ[3]との間には政治面での対立までが生じたことも理由である。 それでも『外套』を諦めないプッチーニは今度は新進気鋭の劇作家・台本作家ジョヴァッキーノ・フォルツァーノに台本化を依頼する。しかし意気盛んなフォルツァーノは「他者の舞台劇に手を加えるのでなく、まったくオリジナルの台本を書きたい」と言い出してこれを断ってしまう。もっともこのフォルツァーノへの接触はまったくの無駄ではなかった。「三部作」の他の2篇『修道女アンジェリカ』と『ジャンニ・スキッキ』は、こうして縁のできたフォルツァーノがほぼオリジナルの台本として提供したものである。 次にプッチーニは引退した政治家・作家のフェルディナンド・マルティーニを訪ね、台本化を依頼する。マルティーニは試稿を作成したが、それは美しい韻文であまりに格調が高すぎ、原作劇のもつ野卑でセンセーショナルな雰囲気は完全に失われてしまっていた。結局マルティーニは自分は台本作成に向いていない、としてこの任から下りてしまう。 最終的に『外套』の台本作成はジュゼッペ・アダーミが行うこととなった。彼は大作曲家プッチーニからの依頼に喜び、3週間ほどで台本初稿を完成した。
原語曲名:Il Tabarro
原作:ディディエ・ゴルドの舞台劇『ラ・ウプランド(外套)』(La Houppelande , 1910年)
台本:ジュゼッペ・アダーミ
初演:1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にて、ロベルト・モランゾーニの指揮による
作曲の経緯
舞台劇『外套』
台本作家選定の難航
制作着手
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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