外債
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外債(がいさい)とは、日本においては、債券(または債券に表示されるべき権利)のうち、狭義には、外国又は外国法人の発行するものをいい(振替法127条)、広義には、外国通貨建てで発行されたもの(外貨建債券)や外国の市場において発行されたものをも含む。日本の場合、日露戦争の準備期間中に高橋是清が日本国債をポンド建てで売りイギリス製軍艦(当時の日本はまだ鉄鋼業が発達不十分で軍艦製造能力に不安があったため)や弾薬の購入などに充てたものも外債である。さらに、日本以外の国を基準として同様のものを指すこともある[注釈 1]。外国債または外国債券ともいう。
伝統的な国際債券

狭義の外債は通常は債券引受先の通貨単位で額面を表示する外貨債(がいかさい)という形式を取るが、まれに債券発行元の所属する国家の通貨単位によって額面を表示する。内貨債(ないかさい)という形式も存在する。

1818年のプロイセン王国債500万ポンドは、マーチャント・バンク(merchant bank)のロスチャイルドが同国へ初めて外債を導入する形で発行された。ロスチャイルドは50万ポンドを引きうけ、残りは欧州全域銀行やマーチャント・バンク、さらにパリとフランクフルトに配分された。すなわちハルディマンド(William Haldimand)が42.3万ポンド、アイザック・ソリー商会(Isaac Solly)が42.3万ポンド、サミュエル・アンド・ジョン・ウォード(Samuel & John Ward)が28.2万ポンド、バランドンが25万ポンドを受け持った。シティの他の15社で50万ポンドを担当し、また20人くらいの貴族も参加した。残りは大部分でパリとフランクフルト、さらにアムステルダム、ベルリン、ミュンヘン、ハンブルクで購入された。多くの買い手は今も知られる名前で、メンデルスゾーン、パリシュ(David Parish)、ベートマン(現ABNアムロ銀行)などであった。ロスチャイルドの参入は外債市場の競争を激化させたが、同家と争ってハンブロ商会(現ソジェン)は1852年サルデーニャ王国債の発行引受を勝ち取った。[1]

近代に発行された外債の集合体で最大のものは、オスマン債務管理局が抵当税収を占有し利払償還業務を担った。

それから第二次世界大戦まで、外債発行はイングランド銀行とイギリス大蔵省が調節していた[2]。しかし、発行した外債を市中消化させるのはマーチャント・バンク[1]、あるいは投資銀行とその系列の証券会社であった[3]。イギリスのマーチャント・バンクは国内保険会社と親しかったが、第一次世界大戦で保険会社は国債を消化するので精一杯であった。これに対してアメリカの場合、戦時国債を大して発行せずにすんだので、アームストロング法により系列化した保険会社は巨額の外債を消化することができた。二度の世界大戦はそれぞれの戦後処理を通して、発行業務を出口業務から蚕食させていった。オフショア市場がいくつもある今日の国際債券市場において、外債市場は各国の規制をともなう小さめの市場である。

資本が自由化されていない国へ機関投資家が資本投下をする場合、株式は系列間で持ち合いが行われており、市場が狭すぎてキャピタル・ゲインを狙うのが精一杯である。そこで公社債から切り込むことになるが、そのときに外債を発行させた。

自由化のされていない国は今や限られているので、国際債券市場の大部分はユーロ債市場となっている。
日本による外債発行の歴史
フランとポンド

日本政府が発行した最古の外債は、江戸幕末の1866年にソシエテ・ジェネラルを窓口として発行した3500万フランである。明治初の例は1870年4月23日明治3年3月23日)にロンドンで発行された9分付英貨国債100万ポンド(当時の相場で488万円相当)であり、調達資金は新橋駅?横浜駅間の鉄道建設費用に充てられた(→日本の鉄道開業)。1873年には秩禄処分の費用を捻出するため7分付英貨国債240万ポンド(当時の相場で1,171万円相当)を発行した。これは発行額面100ポンドにつき92.5ポンドで売出されるという未開国の発行基準扱いによるものであった[注釈 2]。それから当分、日本は外債を発行しなかった[注釈 3]

発行が再開されるのは貨幣法施行後である。1899年に4分利付英貨公債1千万ポンドをPanmure Gordon & Co. が引受けた。日露戦争においては総額にして約8億円相当の戦費を調達した。1904年の2回分2200万ポンドを引受けたのは先のPG、クーン・ローブ、1905年の3回分8500万ポンドは先のPG/KL、Bank fur Handel und Industrie(のちにダルムシュタット支店がダナート銀行となる)、英米独仏での公募引受け行、戦後の1907年の2300万ポンドはParr's Bank、香港上海銀行横浜正金銀行、英仏ロスチャイルドである。海底ケーブル敷設が一段落すると、1910年に水町袈裟六が仏ロスチャイルドに4億5千万フランを引受けさせて戦費の借換を成功させた。2年後、鉄道債も長期に借り換えるべく2億フランを追加した[注釈 4]。この時期には東京市京都市大阪市横浜市などの主要な都市や北海道炭礦汽船南満洲鉄道などの企業も発行した。
モルガン・ダラー

上の時期に発行された外債の総額は約16億円に達し内国債の総額を上回ったが、第一次世界大戦が勃発し大戦景気が日本経済を回復させた。外債発行の必要性が薄まり、1916年にはイギリス・フランスロシアが初めて日本に向けて外債を発行した。しかし大戦後の不況で再び国際収支が悪化した。加えて関東大震災による経済混乱の中で復興資金のために1924年2月13日にはロンドンで2,500万ポンド(6分利付)、ニューヨークで1億5,000万ドル(6分半利付)の「震災善後処理公債」が募集された[注釈 5]

5年後の世界恐慌とそれに続く金輸出再禁止を経て外資に対する不信が募り、日本の外債募集は行われなくなった。さらに第二次世界大戦において敵対したアメリカ・イギリス(後にフランス)に対する外債の元利支払を停止した。1943年3月15日には外貨債処理法が制定され、日本国内に還流されていた外債は円建ての国内債に変換された。海外保有外債は日本政府の厳重な統制下に入り、物上担保権が剥奪された。戦後、ポツダム勅令によって外貨債処理法は廃止された。

アメリカ・イギリス・フランスの3国に対する償還は困難に思われたが、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年9月26日にアメリカ・イギリスと、次いで1956年7月27日にフランスとの間で、日本に有利な償還方法を協定することに成功した[注釈 6]。この間1953年、「国際復興開発銀行[4] からの外資の受入に関する特別措置に関する法律」第2条により、外債は政府が保証できるようになった。この年5月30日、バンカメ電源開発の発行した外債700万ドルを引受けている[5]
公社債市場の開放

1959年2月17日、日本国債として戦後初の外債3000万USドルが発行され、ファースト・ボストン(現クレディ・スイスロックフェラー系)が引受銀行団の幹事を務めた[6]1961年11月24日には外貨準備補強策として日銀債2億USドルが発行された。引受銀行は、バンカメ、チェース・マンハッタン、ロックフェラー系のファースト・ナショナル・シティの3つであった。

1964年、日本はOECD へ加盟し、国内への直接投資自由化する義務を負った。1969-1971年の3ヵ年は毎年段階的に自由化された。この過程で自由化を免れた業種は農林水産業など7種に減らされ、また完全自由化された業種は228にも達した。1975年には自由化を免れた業種が4種に減った[7]。同年以降、日本郵船がスイスフラン建の外債を発行している。この頃、スイスの資本輸出先において日本は4割を占めた。1986年に東京オフショア市場が誕生してから適債基準等が緩和されていった。


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