夕刊
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夕刊(ゆうかん)は、夕方午後)に各家庭や新聞スタンドに配布・販売される新聞
日本国内

日本では一部地域(山間部、あるいは離島など)を除き一般には毎週日曜日祝日、及び年末年始12月29日から翌年1月3日までの間を除いて毎日刊行されている。なお、新聞休刊日には当日の夕刊と翌日の朝刊が刊行されない。夕刊専売の一部新聞では、年末年始特大号(日付は1月1日付けとして)を毎年12月25日から12月29日まで発売している。
歴史
黎明期

日本国内における夕刊は1877年11月12日に夕刊紙『東京毎夕』が創刊されたのが最初であり、1885年1月1日には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞東京本社)などが現在の夕刊とほぼ同じ形の「午後版」[1]を出した。しかし長続きはしなかった。これは交通通信網が不十分であったからであるとされる。その後、1897年1月1日に『東京朝日新聞』(現在の朝日新聞東京本社)が発行した「2回版」と呼ばれる物が発行されている。当時は未明に「1回版」を発行した後、10時ごろに「2回版」を発行・配達していたため、厳密な意味での夕刊ではなかったが、当時は新聞の印刷技術の問題から無理もあり、これもわずか7か月で「2回版」は廃止されてしまう。その後迅速な報道が要求されていることや、1915年大正天皇即位の礼が開催されることから、大阪朝日新聞社大阪毎日新聞社が提携し「御大典記念」として同年10月10日10月11日付けとして夕刊を発行している[2]

20世紀に入ってから主要全国紙などが発行翌日付(よって新聞の欄外に掲載される日付欄には「○○年○月○日(○日発行)」と掲載されている)の形でこぞって発行していた。朝・夕刊セット新聞の夕刊が発行日と同じ日付になるのは1943年10月11日付けの新聞からである[1]。また、1937年ごろには日中戦争を伝える目的で「正午版」と呼ばれる「第2朝刊」とほぼ同じもの、さらに戦後のごく一時期に通常の朝・夕刊以後に発生したニュースを収録した「第2朝・夕刊」と呼ばれるものも発行されており、日によって1日に3-4回配達された新聞も存在するが[1]太平洋戦争第二次世界大戦)の影響による新聞の統制令により1941年ごろから夕刊の発行が規制され、東京の『東京新聞』(現在は中日新聞東京本社が発行)、大阪の『大阪新聞』(産経新聞系)のような専業紙を除いて殆どの新聞が朝刊のみとなった。特に1944年3月6日からは朝・夕刊セットの新聞の夕刊は完全に廃止となった[1]
発展期

戦後に入って夕刊は復活したが当時は製紙事情が充分ではなかったことなどから政府当局からの指導で全国紙の増ページが認められなかったことを逆手に取り、その分夕刊専売の新聞を続々と創刊させた。特に大阪府など西日本の地方新聞で全国紙をバックにした夕刊地方新聞が乱立し、産経新聞系の『大阪時事新報』や毎日新聞系の『新関西』(のちにスポーツニッポン大阪本社版夕刊)、『新大阪』や『新九州』、朝日新聞系の『大阪タイムズ』、中日新聞系の『名古屋タイムズ』、西日本新聞系の『夕刊フクニチ』、独立系の『大阪日日新聞』や『関西新聞』などが相次いで発行され、関東でも『東京日日新聞』や『報知新聞』が夕刊紙として復刊された。また、東京では『夕刊朝日新聞』『夕刊読売』など、全国紙の実質的なセット版の復活ともとれる夕刊紙が創刊されるようになった(後述の正式なセット売り再解禁により親会社の新聞に統合される)。

その後1951年10月1日から、朝刊紙の夕刊とのセット発行が再解禁され[1]、全国紙そのものの夕刊(発行当日付。但し一部地域[注釈 1]では夕刊がないため朝刊のみの統合版で発行。読売新聞中部支社東海3県向け)は元々朝刊単独で夕刊は出していない)が再開されるようになり毎日系夕刊紙は毎日新聞、あるいはスポーツニッポンの夕刊と経営・紙面を統合するようになっていった。また北海道新聞系の『北海タイムス』、西日本新聞系の『フクニチ新聞』、神戸新聞系の『神港新聞』などがそれぞれ独立し元来の親新聞と競合関係になる。その他の地方都市などでも夕刊専売の地方新聞(発行翌日付。十勝毎日新聞など)が相次いで創刊するようになる。

1960年代に入ると娯楽性を重視した夕刊専売紙[注釈 2]が創刊するようになった。こういった都市部で発行される夕刊専売の新聞の多くは、主に空港フェリーターミナルコンビニエンスストアにある新聞即売スタンドでの販売が主であり、産経系直営の『大阪新聞』『夕刊フジ』、ブロック紙系の『名古屋タイムズ』『夕刊フクニチ』などを除けば、他の全国紙やブロック紙に委託宅配をするが、宅配用の部数は極々限られている。そのため1頁や最終頁の題字が掲載されている箇所などに1部売り定価を強調して表示する新聞も多い[注釈 3]

またこの頃から新聞週間[3]の一環で、この期間中の日曜日に行われている「新聞少年の日」には、「新聞少年の日頃の労いに感謝し、新聞販売店の休日を確保する」という意味合いで、一般紙(全国紙・一部の地方紙)ではこの日に限り日曜夕刊を休刊日としていた[4]が、1965年から一般労働者の雇用情勢の悪化により、就労環境の確保の観点から、まず1月から3月までの3か月間は、第1・3日曜日[5]を休刊日とすることにし、同4月からはこれを毎週の日曜・祝日に拡大するようになった[6][注釈 4]

日曜日の夕刊が休刊となった経緯について、それを詳しく描いた小説「日曜夕刊がなくなった日」(田沢新吉、講談社)によれば、それまで新聞休刊日とされるこどもの日秋分の日元日を含む年末年始を除き、毎日夕刊が発行されていたが、東京新聞販売同業組合の第22代組合長となった販売店経営者が全逓信労働組合の中央執行委員長だった宝樹文雄に「次の世代のために、週休制を導入すべきだ」とする提案をした。それがきっかけで、経営者と労組の連携により日曜夕刊の廃止運動がおこったのがきっかけだとされる。ただ、読売新聞は「日曜夕刊は絶対廃止しない。理由はいろいろあるが、夕刊を休むと新聞の使命遂行に影響する」として反対したといわれる。

その後、1965年1月からまず第1・3日曜に限り夕刊を廃止することで読売以外の全国紙、および多くの地方紙が同意。信濃毎日新聞など一部は同年1月から毎週日曜の休刊に踏み切った。その後読売側が折れ、2月から毎週日曜の夕刊を休刊、4月以後は全新聞社が日曜夕刊を毎週完全に休刊することを表明したとされている[7]。これ以後、全国紙や一部の地方紙では日曜夕刊の代替として、日曜版と呼ばれる別刷り(二部紙)形式の新聞を発行する傾向が強くなっていくとともに、日曜日夕方のテレビに『テレビ夕刊』と称するニュース番組の放送が始まった。1989年1月8日には、岐阜新聞が朝刊配達時に前日(土曜日)の夕刊を、夕刊を購読していない世帯にも特別に配達した。これは前日の昭和天皇崩御に伴うと考えられる。
最盛期

1990年代前半頃には、東京都でも夕刊専売の地方紙が乱立し『東京レディコング』や『日刊アスカ』など、既存夕刊紙とは違った切り口や紙面工法を取り入れたことで「夕刊紙戦争」とまでいわれていた。当時は株式相場が過熱しており、当日午前10時の株価を掲載していた夕刊紙もあった。1995年に野茂英雄投手が大リーガーとなり、活躍し始めたが、この大リーグの試合時間帯が日本の夕刊紙の締め切りにマッチし、野茂や後に続く日本人大リーガーの活躍を、紙メディアでは夕刊紙がいち早く報道することができ、帰宅時のサラリーマン読者のキラーコンテンツの一つとなった。


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