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夏の位置(416年頃)。
公用語匈奴語
首都統万城 (418年-427年)
上? (427年-428年)
平涼 (428年-430年)
皇帝
407年6月 - 425年赫連勃勃
425年 - 428年赫連昌
428年 - 431年6月赫連定
変遷
建国407年6月
吐谷渾によって滅亡431年6月
夏(か、407年 - 431年)は、五胡十六国時代に匈奴鉄弗部の赫連勃勃(劉勃勃)によって建てられた政権。一般に「大夏」と呼ばれる。別名「胡夏」「劉夏」。
歴史
起源(独孤部の首長の劉進伯
310年、去卑の孫の劉虎が鮮卑拓跋部に敗れてオルドスへ逃れ、以降ここに割拠し、前趙・後趙・前秦から官を受けた。
劉虎の孫の劉衛辰が族長になると、再び鮮卑拓跋部に敗れ、劉衛辰は部を率いて前秦領内へ逃れた。376年、劉衛辰は前秦の拓跋部討伐に従って功績を立て、同年、オルドスに戻って拓跋部・柔然を服属させ、一大勢力を形成した。
386年、拓跋部が再興(後の北魏)すると劉衛辰はこれに勝てず、391年には北魏の遠征軍によって殺され、鉄弗部は一時滅んだ。劉衛辰の子の劉勃勃(後の赫連勃勃)はオルドス西南部の高平まで逃れたが、その後も北魏は追討軍を繰り出したため、流転の末に後秦へ身を寄せた。後秦は北魏に備えるため、勃勃をオルドスに鎮した。 407年、劉勃勃は旧鉄弗部や鮮卑諸部を糾合すると、後秦から自立して大単于・大夏天王と称し、龍昇と建元して大夏国を建てた。同年、夏はオルドス全域を平定し、413年には赫連氏改姓や統万城の築城など、着々と勢力を固めていった。また北魏に対しても、414年に北燕と盟を結んで牽制し、同年から翌年にかけて山西一帯を攻撃して優勢に立った。 417年、関中の後秦が東晋の劉裕によって滅ぼされると、418年に夏軍は南下して東晋を破り、長安など関中諸城を占領した。同年、赫連勃勃は帝位に即き、翌419年に真興と改元し、統万城を都に定めて帰還した。夏の領域は、関中・オルドス・山西南部に及び、吐谷渾・北涼を服属させ、華北西部に大勢力を築いた。 424年、長安で反乱が起こって内乱状態となり、425年に赫連勃勃が死去すると、夏の勢力は急速に衰退した。426年、夏は2路より5万の兵を進めて西秦を攻め、都の枹罕を陥して西平まで達したが、北魏はこの機に乗じて夏へ第1次遠征軍を送り、関中諸城を占領した。427年、北魏は夏へ第二次遠征軍を送り、都の統万城を占領した。二代皇帝赫連昌は統万城から脱出し、上?を都に定めて抗戦したが、各地で北魏に敗れて政権は瓦解した。428年、夏帝赫連昌は北魏に捕らえられた。 428年、赫連昌の弟の赫連定は逃亡先の平涼で大夏皇帝に即位し、同年、各地の敗残兵を糾合すると、北魏から関中全域及び統万城を除くオルドス諸城を奪回した。430年、南朝宋と同盟が成立し、赫連定は統万城奪回に向かったが、北魏は夏へ第三次遠征軍を送り、ついに夏都平涼も陥落した。夏は瓦解し、赫連定は敗残兵を率いて上?へ逃れた。 431年1月、夏主赫連定は再起を図るため西へ進み、南安の西秦を攻めてこれを滅ぼし、ついで全軍を率いて北涼遠征を行った。6月、夏軍が黄河を渡る途中、服属していた吐谷渾軍に襲われて壊滅し、赫連定も捕らえられて大夏政権は滅亡した。なお、第3代皇帝赫連定は432年、第2代皇帝赫連昌は434年に北魏によって殺された。 現存する夏の文物としては、統万城遺址・代来城
夏の建国
衰退
滅亡
夏の文物
夏の名臣
叱干阿利
鮮卑叱干部族長の一族。劉衛辰が北魏に滅ぼされた時、族長であった太悉伏を説得して遺児の劉勃勃(後の赫連勃勃)を匿った。この事が発覚すると叱干部は北魏によって滅ぼされたが、阿利は余衆を率いて勃勃に投じ、407年に夏が建国すると御史大夫・梁公に拝された。
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