夏目漱石
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夏目 漱石
(なつめ そうせき)
1912年9月13日金曜日)に撮影された夏目漱石
明治天皇大喪の礼[注釈 1]
誕生.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}夏目(なつめ) 金之助(きんのすけ)
1867年2月9日
武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区馬場下町
死没 (1916-12-09) 1916年12月9日(49歳没)
日本 東京府東京市牛込区早稲田南町(現:東京都新宿区早稲田南町
墓地雑司ヶ谷霊園東京都豊島区
職業教師小説家評論家英文学者
言語日本語
国籍 日本
教育文学士帝国大学1893年
最終学歴帝国大学英文科卒業
活動期間1905年 - 1916年
ジャンル小説俳句漢詩評論随筆
主題近代知識人の我執個人主義・日本の近代化
文学活動余裕派反自然主義文学
代表作

吾輩は猫である』(1905年)

坊つちやん』(1906年)

草枕』(1906年)

三四郎』(1908年)

それから』(1910年)

』(1911年)

彼岸過迄』(1912年)

行人』(1914年)

こゝろ』(1914年)

道草』(1915年)

明暗』(1916年)

デビュー作『吾輩は猫である』(1905年)
配偶者夏目鏡子
子供夏目純一(長男)
夏目伸六(次男)
親族夏目房之介(孫)
松岡陽子マックレイン(孫)
半藤末利子(孫)
夏目太郎(新田太郎、兄の孫)
夏目哲郎(曾孫)
夏目一人(曾孫)
影響を受けたもの

漢籍
徂徠派
オフィーリア
アーサー王物語
ヘーゲル
老子など

影響を与えたもの

グレン・グールド森?外
芥川龍之介横光利一内田百
梶井基次郎村上春樹江藤淳
柄谷行人大江健三郎蓮實重彦
魯迅志賀直哉
多くの日本の作家

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夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日慶応3年1月5日〉 - 1916年大正5年〉12月9日)は、日本教師小説家評論家英文学者俳人武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。

本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。

代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。

講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。

大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。

帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山愛媛県尋常中学校教師、熊本第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンカムデン区ランベス区などに居住した。

帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁鉄道院総裁、東京市長貴族院議員などを歴任した官僚出身の政治家中村是公の親友としても知られる。
生涯
生い立ち夏目漱石誕生之地碑夏目漱石の母・千枝

夏目金之助は、1867年2月9日慶応3年1月5日)に江戸牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持ち、生活も豊かだった[1]。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといわれている。

名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。

金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[1]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出された。夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。
幼少期5、6歳頃の金之助

金之助はその後、1868年明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[2]。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻った。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。

養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続いた。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。

1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。
少年時代

12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校[注釈 2] に入学した。大学予備門(のちの旧制第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で1881年明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学した。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている[3]

しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。

2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[注釈 3] に入学し、頭角を現した。大学予備門時代の漱石

1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学した。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人佐藤友熊橋本左五郎中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。

1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称された。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第した。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活した。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた[注釈 4]
正岡子規との出会い夏目漱石句碑「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉」(京都市中京区御池通木屋町東入ル)。

1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人正岡子規と出会った。子規が手がけた漢詩俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まった。この時に初めて漱石という号を使った。漱石の名は、代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。

同年9月、房州房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていった。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続いた。
帝国大学に入学帝国大学時代の漱石(1892年12月)

1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この頃から厭世主義神経衰弱に陥り始めたともいわれる。1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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