夏目吉信
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 凡例夏目吉信
時代戦国時代
生誕永正15年(1518年[1]
死没元亀3年12月22日1573年1月25日
別名広次、正吉、通称:次郎左衛門尉
戒名信誉徹忠居士 釋行誉
墓所愛知県額田郡幸田町の明善寺
愛知県岡崎市本宿町法蔵寺
主君徳川家康
氏族夏目氏清和源氏満快流
父母父:夏目吉久、母:水野氏
兄弟吉信、吉重[注 1]
松下之綱
子吉治[注 2]、吉季[注 3]信次[注 4]吉忠[注 5]
吉次[注 6]、女(中根可堅室)
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夏目 吉信(なつめ よしのぶ)は、戦国時代武将松平氏徳川氏)の譜代家臣。通称は次郎左衛門尉。

南紀徳川史(紀州藩の歴史書)には、(夏目系譜)吉信が15歳の時に手柄を立て、松平廣忠からを賜り、廣次に改名したという記述がある。熊野那智大社文書に収録の徳川家康奉行・夏目廣次奉書は、永禄12年のことである。
生涯
生い立ち浜松市中区布橋の夏目次郎左衛門吉信旌忠碑

夏目氏信濃国伊那郡夏目村の地頭職が起こりである。中先代の乱に敗れ、吉良荘に逃れ、六栗村の中屋敷台地に夏目屋敷城(六栗城)を構えた。古くから松平氏徳川氏)に仕える譜代衆であった[2]

永正15年(1518年)、夏目吉久の長子として、三河国幡豆郡六栗村(現在の愛知県額田郡幸田町)で生まれた。永禄6年(1563年)7月3日、三河・遠江両国の郡代となる[3]
三河一向一揆野場西城土塁

永禄4年(1561年)、三河長沢城攻めで軍功を上げ、永禄5年(1562年)に板倉重定を攻めた三州八幡合戦(八幡村城)の際には、今川氏の攻撃で家康(元康)方が総崩れになった際、殿(しんがり)を務めて、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したという。後に家康から軍労を賞され備前長光作の脇差を賜った。

ところが、永禄6年(1563年)秋、岡崎を中心に寺が「守護不入」特権を侵害されたとして家康権力に対抗して武力蜂起した[4]三河一向一揆では、大津半右衛門・乙部八兵衛・久留正勝らの門徒家臣とともに一揆側に加担し、野場城(六栗城との説も)に籠って松平家康(後の徳川家康)に敵対した。しかし乙部八兵衛は砦は長く持たないと判断し久留正勝等と密かに計り攻め手の松平伊忠と内通し[5]、砦が陥落すると、松平伊忠に捕らわれたが、乙部の助命嘆願によって許され伊忠の附属となった。後に忠義の士であるとして、伊忠が家康に嘆願して正式に帰参を許された。同年7月3日、三河・遠江の郡代となる[6]
三方ヶ原の戦い

元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城の留守居だったが、櫓に登って戦場を遠望して味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かう。退却を進言するが、止めるのも聞かず家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のみねで打って奔らせた。家康を逃がすために、自らを家康と称し、十文字の槍を持ち、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦。身代わりとなって戦死した[7]。享年55[8]。後に、家康は本宿の法蔵寺に三方ヶ原戦死者の慰霊碑を建てさせ、吉信の忠烈に感じて「信誉徹忠居士」と刻んだ吉信の墓を建てた[9]
系譜

父:
夏目吉久

母:水野氏

本人:夏目吉信

妻:松下之綱の娘

長男:夏目吉治

次男:夏目吉季

三男:夏目信次

四男:夏目吉忠

五男:夏目吉次



子孫

吉信が討ち死にした当時、長男・次男はすでに死亡しており、三男信次も出奔して松下姓を称していたため、四男の吉忠があとを継いだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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