夏木陽介
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なつき ようすけ
夏木 陽介
ひまわり社『ジュニアそれいゆ』9月号(1958年
本名阿久沢 有
生年月日 (1936-02-27) 1936年2月27日
没年月日 (2018-01-14) 2018年1月14日(81歳没)
出生地 東京府八王子市
死没地 東京都
身長175 cm
血液型A型
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俳優

ラリードライバー

活動期間1958年 - 2018年
活動内容

映画

テレビドラマ

配偶者なし(生涯独身)
主な作品
映画

ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐

秋立ちぬ

用心棒

どぶ鼠作戦

なつかしき笛や太鼓

ジェラシー・ゲーム
テレビドラマ

青春とはなんだ[1]

Gメン'75

スシ王子!

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夏木 陽介(なつき ようすけ[出典 1]1936年2月27日[出典 2] - 2018年1月14日)は、日本の俳優ラリードライバー。本名は、阿久沢 有[5]三船プロダクション株式会社夏木プロダクション代表取締役社長(?2014年)を経て、オフィス夏木(2015年?2018年)所属。
来歴・人物
生い立ち

東京府[出典 2]八王子市出身。桜美林高等学校を卒業。
モデルから俳優へ

1954年明治大学経営学部に入学。同級生だったホキ徳田の祖母の家に画家の中原淳一が寄宿していたことが縁で中原が編集者を務めていたひまわり社を見学した際、中原が発行する雑誌「ジュニアそれいゆ」のモデルにスカウトされ、1958年、大学卒業と同時に東宝へ入社[6][7]。この時、中原の命名によって「夏の太陽に向かって真っすぐに伸びていく若木のように、たくましく生き生きとした俳優になって欲しい」という意味を込められた[8]「夏木陽介」の芸名を受け[6]、数日後には『美女と液体人間』で映画デビューを飾る[7][注釈 1]。同期には桐野洋雄小川安三がいる。当初、会社からは佐藤允・夏木・瀬木俊一の3人組で「スリーガイズ」と売り出されたが、瀬木が引退したために自然消滅した。また夏木本人もデビューからしばらくは「何かあったら辞めてやる」と軽い気持ちで役者をやっていたという[7]。しかし東宝の俳優養成所では講師役の小杉義男に対して一歩も引かなかったり、東宝撮影所の地主の息子だった守衛の態度に憤慨して撮影所の門の鎖をバイクで引きちぎったりと、他人に物怖じしない行動が畏敬の念を集めることとなり、東宝の社風も重なって、いじめられることはなかったという[7]
多彩な作品への出演、ビジネス界へ

同年、石原慎太郎が監督した『若い獣』に出演。続いて熊谷久虎監督の最後の作品となった『密告者は誰だ』で早くも主演を飾り[6]、『狐と狸』で新人賞を得る[7]。『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』で役者としての気持ちが固まった後は、黒澤明監督の『用心棒』や稲垣浩監督の『野盗風の中を走る』などの作品で順調に出演を重ねていく。特に東宝の助監督が一本立ちして監督となる出世作のほとんどに主役として出演する。爽やかさと野性味を兼ね備えた二枚目として[4]、現代アクション、戦争映画、時代劇、怪獣映画、青春映画、サラリーマン物、文芸映画、コメディと東宝がカバーする多彩な領域にくまなく対応した。

しかし映画界が斜陽化の一途をたどり始める1964年頃より、徐々に俳優業への情熱が冷めてきて、房総半島に作るレジャーランド計画(行川アイランド)に幹部待遇で迎えられ参画するなど、ビジネスへと関心が傾いてゆく[9]1968年、個人事務所「株式会社夏」を設立。
青春ドラマ主演の大ヒット

そんな折にテレビ映画の出演が持ちかけられた。ビジネス優先を考え固辞していたが、東宝の助監督であった松森健がこの作品で監督デビューすることなど、親しいスタッフの三顧の礼もあり、出演を引き受けた。それが1965年に放送開始された日本テレビ日曜20時枠青春ドラマシリーズの第1作となった『青春とはなんだ』の主演教師・野々村健介役であった。後に様々なバリエーションで作られる学園ドラマの魁となったこの作品は高視聴率を誇り、一気にお茶の間での知名度を上げることとなる。翌1966年にはこれに肖って作られた主演映画『これが青春だ!』も大ヒットした。また1967年に主演した木下恵介監督の映画『なつかしき笛や太鼓』でも同じく教師役を演じている。

1968年から1970年まで、竜雷太と共に刑事ドラマ『東京バイパス指令』に主演、1972年にはNHKで『明智探偵事務所』に主演するなど、意欲的な活動を展開する。
三船プロへ、人気ドラマ出演

1973年、東宝の先輩でもあった三船敏郎より「力を貸して欲しい、俳優が必要なんだ」との誘いを受け[10]、竜雷太と共に「三船プロダクション」に移り[6]、テレビドラマに活躍の場を移し、『荒野の用心棒』、『Gメン'75』、『江戸の激斗』などの人気ドラマに出演し、引き続きお茶の間で親しまれる存在となる。映画でも『ゴジラ』(1984年版)や『海へ ?See you?』などの話題作に出演した。
芸能プロダクション設立とラリー参戦

1982年に「三船プロダクション」を退社後は個人事務所「株式会社夏」で活動し、1988年に「株式会社夏木プロダクション」社名を変更[6]。自身の活動の傍ら、芸能プロダクションの社長を務めた。その後はラリー参戦のため、俳優としての仕事のオファーを断ることが多かった[11]

自動車好きとして有名で[4]、日本でも石原裕次郎力道山、夏木の3人だけと言われたメルセデス・ベンツ・300SLを所有するなど免許を取得してから当時の高級車・スーパーカーを中心に数百台は乗り換えていると語っていた。その後はジャガー・SS100ジャガー・Eタイプ2台、レクサス・SC430ローバー・ミニなどを自身の愛車とした。またラリードライバーとしても活躍しており[4]1985年1986年にドライバーとしてダカール・ラリーに出場。その後1987年から1993年までは「チーム三菱シチズン夏木」の監督として篠塚建次郎増岡浩らを出場させた。

自動車好きという事もありトヨタ・チェイサー2代目GX61系後期型テレビCM、三菱パジェロのテレビcmに出演した。

2009年7月、軽度の脳梗塞が見つかり、約1週間の入院治療を受ける。また2010年3月には、1984年頃から患っていた胆石の経過観察のため検査を受けたところ、左腎臓に腎臓癌が見つかり、5月14日に摘出手術を受けている[12]

2014年、自身の高齢を理由として夏木プロダクションを営業終了・解散する。2015年には再び自身の個人事務所「オフィス夏木」を作って活動していた。
死去

2018年1月14日午前10時46分、腎細胞癌のため、東京都内の病院で死去[5]。81歳だった。実弟の話では入院後1ヶ月間、集中治療室で1度も意識を回復することはなかった。同月19日未明に、友人であった小説家の山川健一東北芸術工科大学教授)が代筆する形で、夏木の公式ブログにおいて死去が公表された[13][5]

2018年4月12日にお別れ会が行われ、宝田明司葉子中村雅俊原田大二郎藤田三保子倉田保昭竜雷太浜畑賢吉篠塚建次郎テリー伊藤音無美紀子柏木由紀子小沢仁志ら320人が参列した。発起人の一人であった星由里子は欠席したが自身も癌に侵されており5月16日に逝去した。
エピソード
Gメン'75


Gメン'75』の出演交渉でプロデューサーの近藤照男から「次の作品がまた失敗に終われば、プロデューサーの地位を失うかもしれない、力を貸して欲しい。」と言われ『Gメン'75』に出演した[14]。また出演に際して「自宅から東映撮影所までは時間が掛かるので、3話に1話の位の出演にして欲しい」という条件を出した[15]

『Gメン'75』のニューカレドニアでのロケの際に、プロデューサーの近藤と中華を食べに行き、夏木が先に支払いを済ませた。しかし近藤はプロデューサーという立場の自分が支払いを、と考えていたため口論となり、夏木が「怒られる理由がない、降板する」と言い降板となった。近藤からは降板回のエピソードを作らせて欲しいと打診されたが、夏木がこれを固辞したため、突如番組から姿を消すこととなった[16]。夏木は『Gメン'75』は「自分にとって大切な作品であったので、もしそのようなことが起きなければ、その後も長く出演していたであろう」としている[17]。また自身が出演していなかった回はあまり視聴していなかったとしている[18]

『Gメン'75』同窓会番組で丹波哲郎が「夏木の喧嘩っ早さは危ない。ヨーロッパロケの時に、見学してた群衆の中にチャチャを入れる奴が居てNGが続いた。夏木が今度やったら俺がブン殴ってやる、と言い茶化した奴の首っ玉捕まえて引きずり回していた」と語っている。

交友


共演が多かった佐藤允とは一番仲が良かったと述べている[19]


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