「中島淳子」はこの項目へ転送されています。1974年生まれの女優については「中島淳子 (女優)
」をご覧ください。なつきマリ
夏木 マリ
別名義中島 淳子(旧芸名及び旧姓)[1]
生年月日 (1952-05-02) 1952年5月2日(72歳)
出生地 日本東京都豊島区
職業女優[注釈 1]
歌手
ジャンル映画・ドラマ・舞台
活動期間1971年[3] -
配偶者斉藤ノヴ(2011年 - )
公式サイト夏木マリ オフィシャルサイト
One of Love プロジェクト
主な作品
テレビドラマ
『Gメン'75』
『ひまわり』
『野ブタ。をプロデュース』
『医龍-Team Medical Dragon-』
『カーネーション』
『夜行観覧車』
『中学聖日記』
『おかえりモネ』
『君の花になる』映画
『北の螢』
『男はつらいよ』シリーズ
『ピンポン』劇場アニメ
『千と千尋の神隠し』吹き替え
『ザ・ホワイトハウス』
受賞
日本アカデミー賞
優秀助演女優賞
1985年『北の螢』『里見八犬伝』
2003年『ピンポン』
その他の賞
1984年 芸術選奨文部大臣新人賞
1986年 第24回ゴールデンアロー賞演劇賞
1986年 第21回紀伊国屋演劇個人賞
2009年 第20回日本ジュエリーベストドレッサー賞
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夏木 マリ(なつき マリ、1952年〈昭和27年〉5月2日[2] - )は、日本の女優[注釈 1]、歌手。旧芸名及び旧姓は中島淳子[1]である。 東京都豊島区池袋のびっくりガードに近いぬかりや病院で生まれる[4]。小学校3年から埼玉県大宮市で育ち[5][6]、県内の小学校[7]、大宮市立三橋中学校[8]、豊島岡女子学園高校[7]をそれぞれ卒業する。高校在学時から坂本博士主宰のサカモト・ミュージック・スクールへ通い、女声合唱団「サカモトプリティーズ」で活動[9]する。ザ・テンプターズ[10]やザ・タックスマンを追っかけたことがある[11]。 19歳の1971年に、本名の中島淳子名義で「小さな恋」を歌唱して歌手[3][12]として活動を始める。ジャニス・ジョプリンのような曲を希望するも叶わずに、清純派アイドルとしてデビューした[1]。人気は高まらずに各地のキャバレーを日々巡る[1]。 21歳の1973年に、夏木マリ名義で「絹の靴下」を歌唱して再デビュー[12]する。6月のデビューに掛けた「夏に決めよう」から着想した「夏木マリ」は嫌だったが[12]、妖艶な振り付けやフィンガー・アクションが盛り込まれて大ヒットした[2][1]。テレビの歌番組に続けて出演するなど多忙な日々を過ごすが、低色素性貧血を発症して3か月間入院する。退院後は仕事が激減して再びキャバレーを巡る[1]。1974年当時のボディーサイズはB90cm、W60cm、H90cm[4]である。 ヌードダンサーらが踊るレビューショー小屋で仕事中、演劇を生業とする観客から舞台出演に誘われ、舞台の仕事を始める[13]。1990年に単身ニューヨークへ赴き、自分も何かを発信したい想いを抱く[13]。1993年に企画、構成、演出、出演の全てを手がける舞台表現『印象派』を発表して以降、2006年のvol.8まで9作品[14]で80ステージ以上公演し、国内のほかドイツ、フランス、イギリス、ポーランドで高評価を得た[15][16]。 1995年に小西康陽からアプローチを受け、ミニアルバム『九月のマリ?』を発表[15]する。 2006年にブルースバンド『GIBIER du MARIE』を結成[13]し、アルバムのプロモーションビデオの監督を務める。 2007年にパーカッショニストの斎藤ノヴと交際中であると発表して「フランス婚」と表現し、籍にこだわらない[17]と語る。 2008年に自ら主宰するパフォーマンス集団「Mari Natsuki Terroir (MNT)(マリ・ナツキ・テロワール)」を立ち上げ、東京都現代美術館の『イン・トランジット』公演を経て[18]、従来は1人ですべてを手掛けてきた『印象派』から集団の創作へ進化させた『印象派NEO』を2009年に発表[14]する。Vol.1『わたしたちの赤ずきん』を上演する[19]。 2010年に支援活動『One of Love』プロジェクトを開始して、バラと音楽の収益を途上国の働く女性と子供たちに支援している。毎年6月21日の「世界音楽の日」に開催されるギグは、さまざまなアーティストらが参加している[20]。 2011年5月に斎藤と入籍していたことを、26日に発表する。 2015年にキャリア44年目の62歳で、自身初めて全国ライブハウスツアー「夏木マリ MAGICAL MEETING TOUR Live & Talk 2015」を敢行する[21][22]。
来歴