秦の孝文王の側室の夏姫については「夏姫 (秦孝文王)」をご覧ください。
『百美新詠図伝』
夏姫(夏?、かき、生没年不詳)は、中国の春秋時代の女性。彼女と関わった男性たちに次々と不運が訪れたことで知られ、物語の題材ともなっている。 夏姫は鄭の穆公と少妃姚子のあいだの娘として生まれた。子貉の妹にあたる[1]。子蛮を最初の夫としたが、子蛮は夭逝した[2]。子蛮は夏姫の兄であるともいう[3]。夏姫は陳の大夫の夏御叔にとついだ。夏御叔とのあいだに子の夏徴舒(子南)を産んだ[4][5][6]。やがて夏御叔は死去した(夏姫が殺したともいう)[2]。 紀元前600年、陳の霊公と陳の大夫の孔寧・儀行父が夏姫と私通した。3人は夏姫の肌着をつけて朝廷でふざけあっていたので、洩冶が霊公を諫めた。霊公がこのことを孔寧・儀行父に告げると、孔寧・儀行父は洩冶を殺すように願い出た。霊公が止めないでいると、孔寧・儀行父は洩冶を殺害した[7]。 紀元前599年、陳の霊公と孔寧・儀行父は夏氏のところで飲酒した。霊公が儀行父に「夏徴舒はおまえに似ている」と告げると、儀行父は「我が君にも似ております」と答えた。夏徴舒はこのことに激怒し、霊公が外出するところを厩から弓を射て殺害した。孔寧・儀行父は楚に亡命した[8]。 紀元前598年10月、楚の荘王が夏徴舒の乱を理由に陳に侵攻した。楚軍は陳に入城し、夏徴舒を殺害して、その遺体を栗門で車裂にした。荘王は陳を滅ぼして楚の県として編入したが、申叔時の諫めをいれて、晋に亡命していた陳の太子の?午を迎え、陳を復国させた[9]。 楚が陳の夏徴舒を滅ぼすと、荘王は夏姫を後宮に入れようとした。申公巫臣が「色を貪るのを淫といい、淫は大罰を受けるものです」といって王を諫めたので、荘王は取りやめた。また子反
生涯
楚の子重
(公子嬰斉)と子反は巫臣に恨みを抱いており、巫臣の一族の子閻・子蕩と清尹弗忌と襄老の子の黒要を殺害した。巫臣は子重と子反を奔命に疲れさせて死なそうと決意した。巫臣は晋と呉のあいだを連絡して、両国の通交を開かせた。紀元前584年以降、呉は楚に侵攻しはじめた。子重と子反は1年に7度も戦いに駆けずりまわることとなった[10]。夏姫は巫臣とのあいだに娘を産み、この娘は羊舌?(叔向)の妻となった[1]。 『国語』は、楚が陳の夏徴舒を滅ぼした後、楚の荘王は夏姫を申公巫臣に妻として与えようとしたといい[4]、『春秋左氏伝』と異なる経緯を記している。 清華簡『繋年』には、夏姫は「少[孔皿][11]」という呼称で現れている。これによると、彼女は夏徴舒の母ではなく、妻であるとされる。楚の荘王が陳に侵攻したさいに、申公屈巫(巫臣)が秦から援軍を得た功績に報いるため、少[孔皿]は屈巫に与えられるはずであったが、連尹襄老がこれを争い奪ってしまった。襄老が河?で捕虜となると、襄老の子の黒要が彼女を妻とした。黒要が死去すると、司馬子反と屈巫が彼女を争ったが、結局屈巫が彼女を妻としてしまったという[12]。 古くは『詩経』が「淫なるか夏姫」と謡っている[13]。『列女伝』は「そのすがたかたちは美しいこと比類なく、男性を籠絡する手管を持っていた」とし、「このような人は閨のことばかり考えて誠実さがなく、色にふけって命を落とすことを知らない」といって非難している[6]。『春秋左伝正義
夏姫をめぐる異説
夏姫の評価
夏姫を題材とした作品
宮城谷昌光『夏姫春秋』(文藝春秋)
駒田信二『夏姫物語』(徳間文庫)
中島敦『妖氛録』
海音寺潮五郎 『中国妖艶伝』 (文春文庫)
脚注^ a b 『春秋左氏伝』昭公28年
^ a b c 『春秋左氏伝』成公2年
^ 『春秋左伝注疏』成公2年
^ a b 『国語』楚語上「蔡声子論楚材晋用」
^ 『史記』陳杞世家
^ a b 『列女伝』?嬖伝「陳女夏姫」
^ 『春秋左氏伝』宣公9年
^ 『春秋左氏伝』宣公10年
^ 『春秋左氏伝』宣公11年
^ 『春秋左氏伝』成公7年
^ 冠が「孔」、脚が「皿」の字。意味と読みは不詳。これが夏姫の名とされる。
^ 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(星海社新書)pp.171-173
^ 『詩経』陳風「株林」
^ 『春秋左伝正義』成公2年
^ 山崎純一『列女伝 歴史を変えた女たち』(五月書房)p.285
^ 宮城谷昌光『春秋名臣列伝』(文藝春秋)p.201
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