壱岐_(戦艦)
[Wikipedia|▼Menu]


艦歴
発注
起工1886年3月8日ロシア帝国海軍インペラートル・ニコライ1世として)
進水1889年5月20日(インペラートル・ニコライ1世として)
就役1905年6月6日日本海海戦にて捕獲され大日本帝国海軍へ編入)[1]
除籍1915年5月1日
沈没1915年10月4日[2]
性能諸元
排水量常備:8,440t[注釈 1]
満載:9,960t
全長垂線間長:99.9m
水線長:101.0m
全幅20.4m
吃水7.6m
機関ベルヴィール式石炭専焼缶16基
+直立型三段膨張式三気筒レシプロ機関2基2軸推進
8,000ihp
燃料石炭 1,000t
最大速16ノット[注釈 2]
航続距離4,900海里(10ノット時)
兵員611名
装甲水線帯:360mm
砲塔:230-250mm
ケースメイト:150mm
甲板:60mm
兵装30.5cm(30口径)連装砲1基2門
15.2cm(40口径)単装砲6基6門
12cm(40口径)単装砲6基6門
8cm(40口径)速射砲6基6門

壱岐(いき、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:壹岐)は、日本海軍戦艦(のち海防艦[3][4]。艦名は、旧国名壱岐国」に因む[5]。日本海軍の法令上は旧字体の壹岐だが[6]、本項目では壱岐と表記する。1915年(大正4年)10月4日、裕仁親王(のち昭和天皇)および東郷平八郎元帥が観戦する中(御召艦榛名)、標的艦として撃沈処分された[7][8]
艦歴

「壱岐」は、元はロシア帝国艦隊装甲艦インペラートル・ニコライ1世ロシア語: Император Николай I)であった[5][9]ロシア帝国海軍時代には、一時はバルチック艦隊の最有力艦艇であり、旗艦を務めたこともあった。

「インペラートル・ニコライ1世」はバルチック艦隊に所属して日露戦争に参加、ニコライ・ネボガトフ少将指揮下の第3艦隊(第3太平洋艦隊)に所属し、ネボガトフ少将の旗艦としてウラジオストクに向かう[10]。航海中の1905年(明治38年)5月27日、バルチック艦隊は日本海軍(連合艦隊、司令長官東郷平八郎大将、旗艦三笠)と交戦する。戦闘で負傷したジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は大破した旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」から駆逐艦ブイヌイ」に脱出、艦隊の指揮権はネボガトフ提督(旗艦ニコライ1世)に委ねられた[11][12]。翌5月28日、ネボガドフ提督指揮下のロシア側5隻は連合艦隊に包囲され、降伏する[13]日本海海戦[14][15]。本艦と同時にオリョールアプラクシンセニャーヴィンも降伏した[16][17]。「イズルムード」のみ逃走に成功した[16][18][19]

6月6日、日本海軍は捕獲したロシア軍艦5隻を改名する[6][20]。「オリョール」は戦艦「石見」、「アドミラル・セニャーヴィン」は海防艦「見島」、駆逐艦「ベドーヴイ」は「皐月[20]、「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」、そして「インペラートル・ニコライ1世」は戦艦「壱岐《壹岐》」と命名された[3][5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:75 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef