声優
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百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理ノートで検討しています。(2023年2月)

声優(せいゆう)もしくはVA(ボイスアクター)または声の出演(こえのしゅつえん)もしくはCV(キャラクターボイス)は、ラジオ放送劇テレビ映画吹き替えアニメーションなど、音声作品や映像作品に、自身の姿を見せずだけで出演する俳優である[1]。広義にはナレーターも含まれる。

音声・映像作品の役割職能を表す場合と職業を示す意味で使われる場合がある。
概要

声のみで演技する実演家であり、その出演形態はメディアの発展と共に、レコードラジオ、さらにはテレビなどへ拡大した。

1910年明治43年)、日本初のレコード会社が発足する。歌舞音曲など演芸録音が普及した。1925年大正14年)には、日本初のラジオ放送が開始する。舞台劇、映画劇、放送劇などが届けられた。

声優の命名由来は『読売新聞』の芸能記者・小林徳三郎によるものと、日本放送協会(NHK)の演芸番組担当プロデューサー・大岡龍男によるものの2説があるが[2]、未だに明確にはなっていない。この年には早くも、『朝日新聞』が「いはゆる『聲の女優』――ラジオ・ドラマの女優」とした報道を行い[3]、翌年の1926年(大正15年)には、『読売新聞』が声優の呼称を使用している[4]

1941年昭和16年)、NHKがラジオドラマを専門に行う東京放送劇団を設立する。1956年(昭和31年)には、ラジオ・テレビ兼営局であるラジオ東京(現:TBS)が海外テレビドラマ吹き替え放送を実施する[5]アニメでは、1958年(昭和33年)に、東映動画が『白蛇伝』を劇場公開する。1963年(昭和38年)には、虫プロダクションが『鉄腕アトム』のテレビ放送を開始する。

声優は当初、ラジオドラマに出演する舞台俳優や映画俳優、次いで放送局劇団員であるラジオ俳優を指し[6]、テレビ時代になって吹き替えを行うアテレコ俳優、さらにアニメを行う役者を指す用語として定着して行った。

国語辞典の『広辞苑』(発行:岩波書店)では、1969年(昭和44年)の第二版からは「吹きかえ」を、2008年平成20年)の第六版からは「アニメーション」を解説文に加えている[7]

こう言った経緯などから放送劇団員は声優という呼称を酷く嫌い、自らを俳優と称する者も少なくない。また、山田康雄内海賢二らも声優は声を演じる俳優、役者がやっている色々なジャンルの一部分であると考えており、『声優』という呼称を好まなかったという[8]

文化庁の委託事業である『演劇年鑑』(発行:日本演劇協会)では、演劇の関係者を紹介する際に、「俳優」「俳優、声優」「声優、俳優」「声優」を並列している。一例として2022年版では、若山弦蔵が「声優、俳優」、森山周一郎が「俳優、声優」と掲載されている[9]。また、2022年(令和4年)度の日本芸術院会員選定の際、黒柳徹子が『俳優』と紹介された[10]

日本で声優の専業化が進んだ理由は、

ラジオドラマ全盛期に、NHKと民放が自前の放送劇団を組織して専門職のラジオ俳優を育成したこと

テレビの黎明期は、番組コンテンツ不足のため、アメリカ合衆国からテレビドラマアニメーション(日本での「アニメ」とは異なる)が大量に輸入され、声優による日本語吹き替えの需要が増大したこと

アニメやゲームの人気の高まりにより、最初から声優専門の演技者を志望する者が増えたこと

などが考えられる。

日本の声優の多くが加盟する協同組合日本俳優連合には、外画・動画部会も設置され、「俳優・声優・その他の実演家」を加入対象としている[11]。後述のフィックス制度により性格俳優としての側面もある。また、アテレコ論争などを経て、ニュースで原稿を読み上げるキャスターアナウンサーなど、放送・報道分野の業務に携わる者とも区別される。

日本国外では俳優の仕事の一部という側面が大きく、吹き替えではスタンリー・キューブリック監督作品『スパルタカス』において、故人となっていたローレンス・オリヴィエの声の代役を門下のアンソニー・ホプキンスが担当したエピソードなどがある。その一方で、アメリカでは声優専業の役者が増え、演技学校で声優コースを設けているところもある[12]

アニメーション作品ではしばしばキャラクターボイス(character voice)、略してCVという和製英語が使われる。これは1980年代後半にアニメ雑誌アニメック』で副編集長だった井上伸一郎が提唱した用語で、その後、井上が角川書店で創刊した『月刊ニュータイプ』でも用いられている[13]。昭和時代の作品では、おもにエンディングのクレジットで「声の出演」と表記されることが多かった。

平成から令和にかけての現在では、「キャスト」ないし「CAST」「CV」(キャラクターボイス)と表記されることが多くなっている。日本国外でのCVの使用例には、ウォルト・ディズニー・カンパニーで翻訳・吹き替えを担当するディズニー・キャラクター・ボイス・インターナショナル(Disney Character Voices International)などがある。

黎明期には顔出しNGの声優も少なくなかったが、時代が下るにつれて歌手としての活動、写真集を出すなどタレント的な活動も増えて顔出しOKの声優が増えてきている。その一方で2000年ごろからの#バーチャルYouTuber活動でみられる、他のキャラクターとして匿名的に活動する声優も出現していく。なお、現代においてはアニメ作品や特撮ドラマ作品のキャラクターの声を担当する割合が増えている点やテレビゲームオンラインゲームに登場する特定のキャラクターの声を専門的に演じることが中心となっている点から「担当声優」と呼称される場合がある。
歴史
言文一致・演劇改良運動

1877年明治10年)12月6日、アメリカトーマス・エジソンが世界初の録音・再生式の蓄音機を発明する[14]坪内逍遥

1880年代になると、日本では言文一致運動などソフト面での文明開化の運動が勃興する。1884年(明治17年)、速記本である『怪談牡丹燈籠』が刊行されている。三遊亭圓朝の演述を記録した[15]1885年(明治18年)、坪内逍遥が『小説神髄』を著し、日本の近現代文学史の本格的な始まりを告げた。

1886年(明治19年)には、歌舞伎近代化を志向した演劇改良会が結成されている。1887年(明治20年)、二葉亭四迷が『浮雲』を著す。日本の近代的な小説の嚆矢となった。1888年(明治21年)、角藤定憲らが大日本壮士改良演劇会を結成する。1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場する。

坪内逍遥はシェイクスピア戯曲翻訳や歌舞伎演目『桐一葉』の創作、森?外との没理想論争など明治期の文芸演劇界で幅広く活躍した[16]。演劇改良運動に取り組んでいた市川團十郎との初対面では、『ハムレット』を引き合いに出して、西洋演劇におけるエロキューションの効能を紹介している。ハムレットのやうな怖しく葛藤つた胸の惱みを言ひあらはす白は、言ひかたによつては非常に趣味も深く、感動も?からうと思ふ。實際は口へ出して言はぬ事を獨白で言はせ、そして自然らしく見せる所に演劇の本領がある。劇は必ずしも寫實を要しない。尤も、只素讀をするやうに一本調子で言つてしまへば、何の含蓄もなからうが、一語々々の深い意味を十分に味はせるやうに、且つ如何にも自然らしく言ひ廻すことが出來たなら、そこにこそ眞に微妙な演技があるので、その複雑な、精緻な味ひは迚も思入れだけでは現せるものではあるまい。外國でエロキューションに重きを置くのは是れが爲である。 ? 坪内逍遥『九世市川團十カ、五世菊五カ』[17]

1891年(明治24年)、伊井蓉峰依田學海の後援を得て、男女合同改良演劇・済美館を興す。寛永6年(1629年)に女性芸能が禁止されて以来、262年ぶりに男女共演が実現し、千歳米坡が女優として公演した。

同年、坪内逍遥が東京専門学校(現:早稲田大学)の文学部において、朗読の研究会を開催する。脚本には饗庭篁村の新作院本が採用された。朗読法を巡って森?外と逍遥の間で論争が起こる[18]川上貞奴川上音二郎

1900年(明治33年)、欧米を洋行中であった川上音二郎一座は、訪問先のパリ万国博覧会で日本人最古となる録音盤の収録を行う。書生芝居の幕間に演じられた『オッペケペー節』をはじめとする多種多様な演目を録音した[19]

1902年(明治35年)、文部省国語国字問題の解決を目的として、国語調査委員会を設置する。小山内薫

1903年(明治36年)、新派劇の父である川上音二郎が正劇運動と称して、『オセロ』、『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの翻案劇を上演する[20]。せりふとしぐさを主とするストレートプレイ新劇運動の萌芽となった。

1905年(明治38年)、中村翠娥、市川九女八、千歳米坡、若柳燕嬢らが女優大会を興行する。

1906年(明治39年)、坪内逍遥と島村抱月文芸協会を設立している[16]。同年、市川九女八、若柳燕嬢らが女優学校を設立。1908年(明治41年)、川上貞奴が帝国女優養成所(後:帝国劇場付属技芸学校)を、藤沢浅二郎が東京俳優養成所(後:東京俳優学校)を設立した。

1909年(明治42年)、小山内薫市川左團次自由劇場を設立している。同年、男女共学の文芸協会付属演劇研究所が設立されている。帝国劇場

1911年(明治44年)、帝国劇場が開場する。5月、文芸協会がシェイクスピア戯曲『ハムレット』を上演した。日本初の全幕上演となった本公演には夏目漱石も招待された[21]。11月には、イプセン戯曲『人形の家』が上演されている[22]


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