壬生藩
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藩庁の置かれた壬生城跡

壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生の壬生城(現・栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)に藩庁を置いた。1602年に外様大名の日根野氏が入封したことにより立藩し、1634年以後は譜代大名数家が交代した。1712年に鳥居氏が3万石の大名として入封し、廃藩置県まで続いている。
歴史.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}宇都宮日光今市鹿沼小山佐野壬生山川 関連地図(栃木県)[注釈 1]
前史

戦国期、壬生城には壬生氏が拠点を置き[1]、その勢力は壬生から鹿沼にかけて広がっていたとされる。小田原征伐の際に壬生義雄は北条方として小田原籠城に参加し、大名としての壬生氏は没落した。壬生地域は結城秀康結城藩)の支配下に置かれた[2]。結城氏の所領支配についてはほとんどわかっていないが、結城家の「指南」である徳川家康が深く関与し、大久保長安伊奈忠次ら家康の代官たちによって実質的な支配が行われていたという推測がある[3]関ヶ原の戦いの後、秀康は越前国1国(福井藩参照)を与えられ転出した。
日根野氏の入封と壬生通りの整備壬生通りおよび周辺の主要街道の略図。壬生一里塚(国史跡)。1604年に壬生通りに設けられた一里塚である。

慶長7年(1602年)、信濃国高島藩から日根野吉明が1万900石で入封した[4][5]。これが壬生藩の立藩となる。壬生城は中世の築城と伝えられているが、日根野吉明の時代に近世的な城郭としての修築が行われたと考えられる[6]

元和2年(1616年)から3年(1617年)にかけて日光に東照社(のちの日光東照宮)が造営されるが、これと並行して小山から壬生・鹿沼・今市を経て日光に至る「壬生通り」(日光西街道)が大河内秀綱によって整備された[7]宇都宮から日光に至る日光街道の整備は、本多正純が宇都宮城下を整備した元和5年(1619年)以降と見られることから、壬生通りは日光への主街道として整備されたとみなされる[7]。壬生通りは将軍の社参路として、あるいは資材の輸送路として使用され[7]、幕府の道中奉行によって管轄された。秀忠・家光の時代には、将軍が日光に社参する時には復路で壬生通りを通り、壬生城で宿泊することが通例であった[8]

寛永11年(1634年)、日根野吉明は豊後国府内藩に2万石で加増転封となる[5]
将軍側近たちの城

翌寛永12年(1635年)年6月、徳川譜代の阿部忠秋が2万5000石で入封する[9]。忠秋は徳川家光に幼少期から仕えた側近で、「六人衆」として幕政に参与し、寛永10年(1633年)には松平信綱堀田正盛と共に宿老(老中)並に進んでいた[9]。壬生入封後間もない寛永12年(1635年)12月には加判の列に加わっている[9]。寛永16年(1639年)1月、阿部忠秋は武蔵国忍藩へ移封された[9]。なお、壬生と並んで壬生通りの要地である鹿沼(鹿沼藩)には、阿部忠秋の壬生入封と同じ寛永12年(1635年)に「六人衆」の阿部重次が、次いで家光側近の朽木稙綱が入封しており、これは家光の壬生通り重視の表れと見なされる[10]。以後、壬生は幕閣級の大名の封地となった[9]

寛永16年(1639年)1月、忠秋に代わって2万5000石で壬生に入封した三浦正次も、家光の「六人衆」の一人である[9]下総国矢作藩からの1万石の加転封であった[9]。なお、三浦正次が入封された際に下総国結城郡猿島郡で6900石が宛行われているが、「山川領」と呼ばれるこの地域は幕末まで壬生藩領として受け継がれることになる[9][注釈 2]。三浦氏は検地など[13]を行って藩政の基礎を固めた。第2代藩主・三浦安次は弟に5000石を分知[9]。第3代藩主・三浦明敬奏者番若年寄を歴任している。元禄5年(1692年)2月23日、明敬は日向国延岡藩に2万3000石で移封された[14]

三浦氏に代わり、松平輝貞(大河内松平家)が3万2000石で入った。輝貞は徳川綱吉の小姓を務めていた側近で、柳沢吉保とともに側用人として活動した[14]。元禄7年(1694年)8月には摂津国・河内国・下野国内で1万石を加増され[14]、元禄8年(1695年)5月には上野国高崎藩に加増転封された[14]。輝貞が壬生藩主であったのは3年間であったが[14]、壬生城の大改築と城下の大改修が行われた[15]。城下の経済的発展に対応するものとされ、城の大手門は城の南から東に移された[15]
加藤明英と「七色掛物反対越訴」

元禄8年(1695年)、若年寄を務めていた近江国水口藩主・加藤明英が2万5000石で壬生に転封された[14]


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