伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年7月)
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をお願いします。(2020年5月) 日本の政治家壬生 基修みぶ もとおさ
生年月日天保6年3月7日(1835年4月4日)
出生地 日本
平安京(京都)
没年月日明治39年(1906年)3月5日
死没地 日本 京都府
称号従一位
勲一等瑞宝章
伯爵
配偶者壬生重子
親族壬生基泰(貴族院議員)
初代 越後府知事
在任期間1869年 - 水原県へ改称
初代 水原県知事
在任期間1869年 -
第3代 東京府知事
在任期間1869年11月6日 - 1871年9月7日
元老院議官
在任期間1875年7月2日 - 1877年1月15日
貴族院子爵議員
在任期間1890年7月10日 - 1892年5月31日
その他の職歴
貴族院伯爵議員
(1897年7月10日 - 1904年7月10月)
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壬生 基修(みぶ もとおさ[注 1])は、幕末から明治にかけての公卿、政治家。庭田重基の三男で、壬生道吉の養子。室は重子(四辻公績の四女)。
略歴
天保6年3月7日(1835年4月4日) - 京都で生まれる。
嘉永2年12月(1850年) - 昇殿する。
安政4年(1857年) - 修理権大夫となる。
文久元年(1861年) - 従四位となる。
文久3年(1863年) - 公武合体派の策略によって長州藩に下向。いわゆる七卿の一人となる。後に、太宰府天満宮延寿王院に移される。
慶応3年12月 - 王政復古後に帰京。
慶応4年1月3日(1868年1月27日) - 参与となる。
慶応4年2月20日(1868年3月13日) - 参与を辞する。
明治元年(1868年) - 軍防事務局親兵掛。三等陸将に補任。
明治元年6月(1868年) - 会津戦争に越後口総督仁和寺宮の参謀として出征。平定後に賞典禄200石を賜わる。
明治2年1月(1869年) - 右近衛権少将、兵学御用掛
明治2年2月8日(1869年3月20日) - 越後府知事となる。
明治2年7月27日(1869年9月3日) - 越後府が水原県となり、水原県知事となる。
明治2年10月3日(1869年11月6日) - 水原県知事を辞し、東京府知事および東京府貫属となる。
明治4年7月23日(1871年9月7日) - 東京府知事を辞する。
1875年(明治8年)7月2日 - 元老院議官となる。
1877年(明治10年)1月15日 - 元老院議官を辞する。
1880年(明治13年) - 勲三等旭日中綬章。
1884年(明治17年)7月8日 - 子爵となる。
1890年(明治23年)
7月10日 - 貴族院子爵議員となる。
10月20日 - 麝香間祗候となる[1]。
1891年(明治24年)4月23日 - 陞爵し伯爵となり、正二位となる。
1892年(明治25年)5月31日 - 貴族院子爵議員を辞する[2]。
1895年(明治28年)3月15日 - 平安神宮初代宮司となる。
1895年(明治28年)4月17日 - 大日本武徳会副会長となる。
1897年(明治30年)7月10日 - 貴族院伯爵議員となる[3]。
1904年(明治37年)7月10日 - 貴族院伯爵議員を辞する。
1906年(明治39年)3月5日 - 京都にて逝去。墓標は二尊院に所在。
栄典
1887年(明治20年)12月26日 - 正三位[4]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
1906年(明治39年)3月5日 - 従一位[6]・勲一等瑞宝章[7]
親族
実父:庭田重基
養父:壬生道吉(1799-1874) - 壬生家尹(1776-1834) の子。
兄:庭田重胤(権大納言)
妻・重子 - 四辻公績四女
長男:壬生基義(伯爵・陸軍少将)
孫:壬生基泰(基義長男、伯爵・貴族院議員)
四男:町尻量基(陸軍中将)
孫:町尻量光(量基の次男で、元キングレコード社長)
曾孫:野間佐和子(量基の長女・登喜子の娘で、講談社6代目社長)