士燮_(交阯太守)
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士燮

交阯太守・龍編侯・衛将軍
出生永和2年(137年)頃[1][2]
交州蒼梧郡広信県
死去黄武5年(226年
交州交阯郡龍編県
?音Shi Xie
威彦
諡号嘉応善感霊武大王(陳英宗による)
別名士?、士王、士王僊
主君独立勢力→孫権
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士 燮(し しょう[1]、シー・ニエップ[2]ベトナム語:S? Nhi?p / .mw-parser-output .vi-nom{font-family:"Nom Na Tong","Han-Nom Gothic","Han-Nom Ming","HAN NOM A","HAN NOM B","TH-Khaai-TP0","TH-Khaai-TP2","TH-Khaai-PP0","TH-Khaai-PP2","TH-Sung-PP0","TH-Ming-JP0","TH-Ming-JP2","TH-Sung-PP2","TH-Sung-TP0","TH-Sung-TP2","TH-Sy-P0","TH-Sy-P2","Ming-Lt-HKSCS-UNI-H","Ming-Lt-HKSCS-ExtB","FZKaiT-Extended","FZKaiT-Extended(SIP)","FZKaiS-Extended","FZKaiS-Extended(SIP)","Sun-ExtA","Sun-ExtB","MingLiU","MingLiU-ExtB","MingLiU_HKSCS","MingLiU_HKSCS-ExtB","SimSun","SimSun-ExtB",sans-serif}.mw-parser-output .vi-nom .ext{font-family:"Han-Nom Gothic","Han-Nom Ming","Han-Nom Minh","TH-Khaai-TP2","TH-Khaai-PP2","TH-Ming-JP2","TH-Sung-PP2","TH-Sung-TP2","TH-Sy-P0","TH-Sy-P2","Sun-ExtB","MingLiU HKSCS-ExtB","Ming-Lt-HKSCS-ExtB","HanaMinB","Han-Nom Kai",sans-serif}士燮)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけ、交州を支配した豪族日南太守の士賜(漢文版)の子[3]。中央から半ば独立した政権を構築し、その支配領域は華南紅河デルタ、後代のタインホア省にまで及んだ[4]
生涯

若年時に都の洛陽に遊学し、潁川の劉陶(中国語版)に師事して『春秋左氏伝』を学んだ[3]孝廉に挙げられて尚書郎となったが、宮廷内の政治闘争に巻き込まれ免官された[3]。後に茂才に推挙され、父の死後に南郡巫県県令として赴任した[3]

光和7年(184年)頃[3][4]に交州刺史賈jの推挙により、士燮は交阯太守に任じられた。交阯太守となってから数年後[注 1]、苛政のために現地の人間から恨みを買っていた交州刺史の朱符(中国語版)(朱儁の子)が殺害される事件が起きた[1]。士燮は混乱を収拾するため、弟の士壱合浦太守に、士?九真太守に、士武南海太守にすることを朝廷に上奏した[6]。この上奏が認められ、士氏の勢力は交趾・合浦・九真・南海に広がった[7]198年群雄割拠図

建安5年(200年)、長沙武陵零陵を支配下に収めた荊州劉表は交州への進出を図り、配下の頼恭を交州刺史、呉巨を蒼梧太守に任命してきた[8]。劉表と対立していた曹操が、士燮に綏南中郎将の地位を与えて交州七郡の監督を命じると、士燮は朝廷に貢納を続けて関係を維持し続けた[8]

建安15年(210年)、江東の孫権が配下の歩?の軍を交州に差し向けると、士燮は孫権に降伏した。長男の士?を人質として孫権の元に送ると、孫権は士?を武昌太守に、士燮の他の子と士匡ら士壱の子にも中郎将の地位を与えた。また、士燮は劉備の支配下にあった益州雍?を、孫権の勢力に引き込む仲介役を果たした[9]。益州への干渉後、士燮は衛将軍に昇進し、龍編侯に封じられた。

黄武5年(226年)、90歳で没した。士燮の墓は現在の蒼梧県とバクニン省トゥアンタインの2か所に建てられ、トゥアンタインに建立された士王祠では士燮の祭祀が行われている[10][11]

なお、羅貫中の小説『三国志演義』には登場しない。
政策と評価

士燮は隴江(英語版)南岸の??(ルイラウ(英語版))に首府を置き、城内に河川から水路を引いていた[12]。中央から交州に派遣された従前の漢人支配者と異なり、交州に土着化した士氏の支配は土着化した漢人支配層と現地の民衆の双方から支持を獲た。このため中央の混乱の影響もあって、長期に及ぶ支配を成立させた[13]。士燮は南海交易によって利益を得、交州の特産品や輸入品を、朝廷や孫権に貢納した[14]。士燮が官庁に出入りするときには楽器が鳴らされて香が焚かれ、士燮の後に続く行列の中には、交易に携わっていたと考えられる胡人(インド人)商人も含まれていた[4][14][15]銅鼓の文様が施された青銅洗(盆)は、士燮期のベトナム北部の出土品に見られる特徴である[2]

士燮の寛容な統治は交州の民衆に受け入れられ[16]、政情が安定した交阯には戦乱を避けて多くの人間が移住した[7]。交阯に逃れてきた者の中には、袁忠(中国語版)・ケ義・袁徽(中国語版)・桓邵(字は元将)・程秉薛綜許靖劉巴らの名士も含まれていた。士燮は交阯に逃れてきた学者・知識人を保護し、現地の人々の教育に力を注いだ[17]。こうした政策から、士燮はベトナムにおける中国文化の影響力拡大に、大きな役割を果たした人物だと見なされている[10][17]。しかし、教化政策を実施した記録が後世の史料のみに現れる点から、士燮をベトナムの教化者とする観点を疑問視する意見もある[10]。中世大越の史家の中には、士燮をベトナムに初めて漢字を導入した者と比定する者もいるが、士燮の時代以前に漢字が既に使用されていたという意見が多い[16]


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