士族
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この項目では、日本明治以降に使われた階級呼称について説明しています。

中国における士族については「貴族 (中国)」をご覧ください。

ポーランド・リトアニア共和国における士族については「シュラフタ」をご覧ください。

琉球国における士族については「琉球の位階」をご覧ください。

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家公家寺院の使用人のうち、原則としてを受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。法律上平民と比しての特権はなかったが、戸籍に表示された[1]第二次世界大戦1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法[2][3][4][5][6][7]施行により士族は他の身分とともに廃止された。戸籍の記載事項としての廃止は、1947年12月22日公布、1948年1月1日施行の戸籍法により行われた。
概要

1869年(明治2年)の版籍奉還の直後の明治2年旧暦6月25日(西暦1869年8月2日)、明治政府は旧武士階級(藩士兵卒)のうち、一門から平士までを士族と呼ぶことを定めた(明治2年行政官達第五七六、五七七、五七八号)。士族の選定基準は藩によって異なるが、加賀藩の場合では、直参身分であった足軽層の一部や上級士族の家臣である陪臣層も士族とされていた[8]一方で、中間などの武家奉公人卒族に編入された[9]。政府方針としては旧来の武士身分の統一を図るものであったが、多くの藩では独自に上中下などの等級をつけ、旧来の家格制度を維持しようとした[10]

「一門以下平士ニ至ル迄総テ士族ト可称事」

さらに明治2年旧暦12月2日(西暦1870年1月3日)、かつての旗本が新政府帰順後に与えられていた中下大夫上士以下の称が廃止され、華族に編入された一部の交代寄合を除いて士族に編入された(明治2年太政官布第1004号)[11]

明治3年旧暦12月10日(西暦1871年1月30日)には、華族とみなされなかった多くの地下家公家に仕えていた青侍などの家臣層も士卒族に統合された。その後、寺社の寺侍なども段階的に士卒族へ統合された。その一方で、給金の財源不足への対策として帰農帰商が推奨され、士卒族から平民への転籍が推進された。また蔵米の等級の変更により、一部の卒族から士族への族籍変更が行われた。

1872年(明治5年)に編製された戸籍「壬申戸籍」においては族籍の項目が設けられた。当時の全国集計による士族人口は、全国民の3.9%を占める25万8952戸、128万2167人であった。また、卒族人口は全国民の2.0%を占める16万6873戸、65万9074人で、士族・卒族・地士[12]の人口は全国民の約6%を占めた(詳しくは壬申戸籍の項目を参照)。

明治5年旧暦1月29日(1872年3月8日)、卒族の称が廃止された。卒族のうち世襲であった家の者も士族に編入されることとなった一方、新規に一代限りで卒に雇われた者は平民に復籍することとなった(明治5年太政官布第29号)。

「各府県貫属卒ノ内従前番代ノ節抱替ノ称ヲ以テ其倅等ヘ禄高ヲ給与シ自然世襲ノ姿ニ相成居候分ハ自今士族ニ可被 仰付候条調書ヲ以大蔵省ヘ可伺出尤家禄ノ儀ハ従前ノ通可相心得事
但新規一代限抱ノ輩ハ平民ニ復籍セシメ給禄ハ是迄ノ通可遣事」

明治5年初頭の時点で卒族だった者の9割近くは、士族に移行している。明治8年までには卒族は完全に解体され、世襲の郷士階級も士族に統合された。明治9年の時点で、士族は40万8861戸 189万4784人を数え、全国民の5.5%を占めた。

士卒族人口構成(明治3?9年)[13]調査期日士族人口卒族人口総人口[14]士族/総人口(%)卒族/総人口(%)
明治3年頃[15]1,094,890830,70730,088,3353.642.76
明治5年旧暦1月29日1,282,167659,07433,110,7963.871.99
明治6年1月1日1,548,568343,88133,300,6444.651.03
明治7年1月1日1,883,2657,24633,625,6465.600.02
明治8年1月1日1,896,3714,30633,997,4155.580.01
明治9年1月1日1,894,78434,338,3675.52

なお、法的には士卒族として扱われなかった、陪臣や武家奉公人等を含む旧武士階級の総人口については諸説あるものの、例えば士族授産の対象となった旧武家人口がほぼ士族人口の倍であったことから総人口の10.4%程度であるとする試算[16]や、『藩制一覧』掲載の人口と石高比から約336万人であるとする試算[17]がある。旧武士出身者の平民籍取得の経路として、陪臣や武家奉公人の例以外にも、例えば以下のような事例があげられる。

明治5年の卒族廃止に伴うもの

帰農帰商の推奨(明治3年から明治4年にかけて、明治政府は帰農帰商出願者に一時賜金を下府し、民籍取得を推奨した)

刑罰としての除籍

脱藩・浪人(江戸時代の浪人に加え、戊辰戦争や戊辰戦争後の幕府方の処分・改易により発生したもの)/

手続きの不備

士族に生まれた者であっても、分籍した場合は平民とされた。大正時代の平民宰相原敬は上級武士の家柄であったが、当時の徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため、20歳のときに分籍して戸主となり「平民」に編入された。
士族の特権の喪失

江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀や殺人権(切捨御免)などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。

士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は、1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。また、名字の名乗りは1870年平民にも許可され、1875年には義務化された(国民皆姓)。この他にも1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。一時、士族に華族と別立ての爵位を授与しようという議論が岩倉具視らにより模索されていた。1876年(明治9年)の木戸孝允らの案では、華族に公爵伯爵、士族に士爵の爵位を授けることが構想されていたが、木戸の死と士族の反乱などが重なり、沙汰やみとなった。

1884年(明治17年)の華族令により勲功者も華族となる道が開かれ、維新の功労者、功績を上げた政治家や軍人、事業に成功した資産家などが華族に列するようになった。この勲功華族の制度の誕生で平民や士族に華族への道が開かれ、一部が華族になった[18]。しかし勲功華族に昇格できた士族はごく一部にとどまり、大半は士族のままだった。士族は平民と比して特権は一切なく、単に戸籍における族称のみだけの存在である[19][20]。1914年戸籍法改正により身分登記制も廃止されたとする事典の記載[21]があるが、1914年3月31日に公布され、戸籍法(大正3年3月31日法律第26号)は、それまでの戸籍法(明治31年6月21日法律第12号)が、戸籍簿と身分登記簿のニ本立てであったものを、戸籍簿に一本化したものであり、それまでの身分登記の事項は戸籍の事項となったのである。従って、制度としての身分登記制の廃止は、そのとおりであるが、戸籍記載事項としては、戸籍法(大正3年3月31日法律第26号)第18条で戸籍の記載事項で華族又は士族の場合は族称を記載し、第154条及び第156条で士族になった場合又は士族でなくなった場合の手続を規定しており、1914年に変更されてはいない。
士族の商法

四民平等へと移行される過程で、士族身分は平民と何ら変わらない存在となっていき、生計を立てるため農業や商業を始めた。塚原渋柿園によると、商業で最も多かったのは、汁粉屋、団子屋、炭薪屋、古道具屋などであったという。特に屋敷の長屋などで先祖代々の家財道具を並べた安直な古道具屋は供給に対して需要が少なく、横柄で堅苦しい客応対もあり、庶民の憐憫と嘲笑を買った。

このように、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗する例は多く、「士族の商法」、「殿様商売」と批難され、性急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえともなった。落語のネタにもなり、三遊亭圓生の『士族の商法』、八代目桂文楽の『素人鰻』は特に有名である。また、歌舞伎では『水天宮利生深川』、『霜夜鐘十字辻筮』が散切物の代表作となっている。


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