士学館(しがくかん)は、桃井直由
(初代 桃井春蔵)が開いた道場。鏡新明智流を教えていた。桃井直正(4代目 桃井春蔵)は、「技の千葉」(北辰一刀流・玄武館の千葉栄次郎)、「力の斎藤」(神道無念流・練兵館の斎藤新太郎)と並び、「位の桃井」と称され、後に士学館は幕末江戸三大道場の一つに数えられた。 鏡新明智流を創始した桃井直由
歴史
初代
記念に芝神明社に自讃の額を掲げたところ、近所の直心影流長沼道場ら他流派の人々から目を付けられ、次々に試合を要求されてしまう。直由は病気を理由に断り、その養子直一は度々負けたため、江戸中に悪評が広まり、額に張り紙して嘲笑う者もいた[1]。
翌安永3年(1774年)、直由は死去した。 直由死去後、養子直一
二代
他流派からの嫌がらせは続いたが、これに同情する人々が入門。竹刀打ち中心の稽古も好評を得て、門人が増えた。
文政2年(1819年)、直一は死去した。 直一死去後、実子直雄
三代
文政13年(1831年)、神道無念流の練兵館と交流試合する。名目は親睦試合であったが、弟子の取り合い等で緊張関係にあったため、立会人の千葉周作(北辰一刀流の玄武館道場主)は弟の定吉と10数名の免許者を連れて時刻前に会場入りし、万一の場合に備えた。この試合で士学館は惨敗したが、千葉の仲裁により事なきを得ている。
嘉永5年(1852年)、直雄は死去した。 直雄死去後、婿養子直正が4代目 桃井春蔵を継ぐ。直正の代で士学館は栄え、後に幕末江戸三大道場の一つに数えられる。 安政3年(1856年)、土佐から武市瑞山が岡田以蔵らを伴い江戸へ出て、士学館に入門する。武市の腕前と人物を高く評価した直正は、まもなく武市に免許を与え、塾頭に任じる。武市は生活の乱れている門人たちを注意して風紀を正した。 文久2年(1862年)、直正は幕府から与力格二百俵に登用され幕臣となり、翌年には講武所剣術教授方出役に任じられる。 この頃の士学館の実力を示す逸話が残っている。慶応元年(1865年)12月、稽古納めを終えた桃井と高弟8名が市谷田町を歩いていると、新徴組と出くわした。隊士たちが、道の片側に寄れと凄んだため、高弟のひとり上田馬之助が怒ると、隊士たちが抜刀し、あわや斬り合いになりかけた。そこで桃井が身分を明かし、ここにいるのは士学館の弟子であると言うと、新徴組が謝罪して喧嘩は収まった[2][3]。 慶応3年(1867年)、直正は幕府軍の遊撃隊頭取並に任じられ、将軍徳川慶喜の上洛に警護役として同行。大坂玉造臨時講武所剣術師範も務める。しかし同年、大坂城での軍議で戊辰戦争の開戦に反対し、開戦派の幕府軍人と対立して幕府軍を離脱する。直正は開戦派に命を狙われることとなり、士学館の高弟数名とともに南河内の幸雲院という寺に落ち延びる。 慶応4年(1868年)1月3日、戊辰戦争鳥羽・伏見の戦いが開戦。幕府軍は敗れ、将軍徳川慶喜は江戸へ逃亡。大坂城は炎上し、京坂は新政府軍に占領された。同年5月、幕府から直正に彰義隊への入隊勧誘があったがこれを断り、逆に新政府軍からの要請で天満川崎(現 大阪市北区)の川崎東照宮(建国寺)境内に道場を開き、大坂の治安維持に当たる薩摩・長州・芸州の兵に撃剣を指導する。 同年、大阪府が設置されると、治安維持のために府兵局が設置され、大坂定番与力・同心を中心に府兵80名に編成された。この府兵は浪花隊(浪華隊)と呼ばれた。直正は府兵局の監軍兼撃剣師範に就き、実質的に浪花隊を率いた。同時に、北桃谷町(現 大阪市中央区)に士学館を再興。高弟で浪花隊隊員である桃井多吉郎を師範代兼塾頭に任じた。翌明治2年(1869年)には隊員数が600名を超えたが、明治3年(1870年)、兵制改革により浪花隊は解散した。
四代
浪花隊