だん ふみ
檀 ふみ
本名同じ
生年月日 (1954-06-05) 1954年6月5日(67歳)
出生地東京都練馬区
国籍 日本
身長170 cm
血液型A型
職業女優・司会者・エッセイスト
ジャンルテレビドラマ・映画
活動期間1973年 -
配偶者なし
著名な家族檀一雄(父)・檀太郎(兄)・妹
主な作品
テレビドラマ
『日本の面影』
『花燃ゆ』
『初めて恋をした日に読む話』
『セミオトコ』映画
『青春の蹉跌』
『あいつと私』
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』
『火宅の人』クイズ・教養番組
『連想ゲーム』
『日曜美術館』
受賞
日本アカデミー賞
第17回 助演女優賞(1994年)
『わが愛の譜・滝廉太郎物語
檀 ふみ(だん ふみ、1954年6月5日 - )は、日本の女優・司会者・エッセイスト。
東京都練馬区出身。身長168cm(1975年3月)[1]。血液型A型。
父は作家の檀一雄。兄はエッセイストの檀太郎、父方の叔父に東映代表取締役会長高岩淡がいる。
「年齢表記を廃絶する会」の会長を自任している。目次 東京都練馬区出身。練馬区立光和小学校[2]、東京学芸大学附属大泉中学校卒業。1973年3月、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業。駿台予備学校に通う。一浪後の1974年[3]、慶應義塾大学経済学部経済学科に入学。6年かかって卒業した。 映画界入りの切っ掛けは1970年、東京教育大学附属高等学校一年15歳のとき[4]、兄・檀太郎夫妻と大阪万博を見物した帰りに、東映京都撮影所長代理をしていた叔父・高岩淡に会いに行った際、たまたま撮影所にいた俊藤浩滋にスカウトされた[4][5]。しかし当時父の檀一雄がポルトガルに長期旅行中で[4]、「おれが帰国するまで待て」といわれ、交渉は一時おあずけになった[4]。 1972年2月に檀一雄がポルトガルから1年4ヶ月ぶりに帰国し交渉が再開され、高岩は「背が高過ぎるし、美人でもないから女優にはムリじゃないか」と反対したが[4]、俊藤が「これからの女優は小柄じゃいかん」と熱心に口説いた[4]。二年経って東映の状況が変わり、俊藤の娘・藤純子が1972年3月を持って結婚引退し、これを俊藤が岡田茂東映社長に伝える際、女優引退を強硬に反対する岡田に「必ず純子のアナを埋めてみせるから、どうか頼む。諦めてくれ」と男の約束をしていたため[4][6]、遮二無二に藤純子の後釜を探す必要があった[1][4][6]。檀一雄はふみを作家にしたくて、海外留学をさせようと考えていたが、作家仲間からは酒の勢いもあり「いいじゃないか、女優にさせろ」と煽られ、兄太郎も女優になることを賛成し、ふみからは「お父さんが決めて」と言われ困れ果てた[4]。結局、ふみの意思を尊重し、東映に娘を一切預けることを決めた[4]。吉報に大喜びの岡田社長、俊藤は「必ず東映の大スターに育てます。二代目藤純子を襲名させます」と檀一雄に伝えた[4][5]。1972年4月、檀ふみは女優として東映と契約したわけではないが[5]、東映の作品に出演するという軽い気持ちで引き受けた[5]。東映に入社したと書かれた文献もあるが[1]、1975年1月のデイリースポーツに「専属契約を結ぶと自由に仕事ができないからと各社の誘いにも首をタテに振らない。マネージャーも知人の女性デザイナーに頼んでいる」と書かれていることからフリーで仕事をしていたものと見られる[7]。 しかし東映幹部がポスト藤純子と過度に期待することに困惑し、大学受験も近づき気持ちが揺れた[5]。獣医になりたくて農学部に進みたいという希望があった[5]。「ポスト藤純子オーディション」で選ばれたのは中村英子だったが、1973年の東映カレンダーは中村が7月四人コミに対して檀は千葉真一と二人で4月と期待度は歴然[5]。映画会社のカレンダーの写真の序列が会社の期待を表すバロメーターなのは昔も今も変わりない。映画はあまり好きでなかったが、撮影所の見学と騙され撮影所に連れられるとそれが衣裳あわせで、主演する高倉健と会い、その格好良さに惹かれて出演することにしたというのが、映画デビューのきっかけであった[8]。
1 来歴・人物
2 出演作品
2.1 テレビドラマ
2.2 映画
2.3 テレビアニメ
2.4 劇場アニメ
2.5 バラエティ
2.6 教養番組
2.7 ドキュメンタリー
2.8 ラジオ
2.9 CM
2.10 朗読
3 著書
3.1 単著
3.2 共著
3.2.1 阿川佐和子との共著
3.2.2 その他の共著
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
6 外部リンク
来歴・人物