墨俣輪中
[Wikipedia|▼Menu]

墨俣輪中(すのまたわじゅう)とは、岐阜県南西部の木曽三川流域にあった輪中[1]
地理明治時代初期の輪中地帯の様子(黒字は主要な輪中名、水色線・青字は主要な河川、着色は黄が美濃国(岐阜県)・赤が尾張国(愛知県)・緑が伊勢国(三重県))

現在の岐阜県安八郡安八町北部(旧結村域)と、大垣市墨俣町(旧墨俣町域)が該当する地域[1]。東西を長良川揖斐川、南北を中須川犀川に囲まれた輪中であった[1]明治時代には主に結輪中(むすぶわじゅう)と呼ばれていた[1]。また輪中自体を3つに分割し、西を「西結輪中」、中を「東結輪中」、東を「墨俣輪中」とする場合もある[2]

この地域は揖斐川と長良川が接近する地域にあたり、派川の中須川中村川などが複雑に絡み合って流れる流域に小輪中が形成されていた[3]。こういった地域について安藤萬寿男1950年(昭和25年)に著した『岐阜県新誌』の中で「網状小型輪中地域」という言葉を用いており、この地域を典型的な例として挙げている[3]。墨俣輪中と福束輪中との間には、成立に関して互いに影響しあった小輪中が複数存在しており、本項目ではこれらを含めた地域一帯を扱うこととする。

また、地形的に考えた場合は輪中内の河川沿いの堤防などを境として、森部輪中を3つ、中須輪中を2つに分割解釈する場合もある[2]
歴史
輪中の出現墨俣輪中と福束輪中の間に存在した輪中の様子

福束輪中を含めた地域一帯は元々揖斐川と長良川に挟まれた川中島であり、人々は水と戦いながら自然堤防の上に集落を構える状態であったが、鎌倉時代に福束輪中の地域に荘園が拓かれると、その周辺の地域で上流側のみの堤防が築かれるようになる[4][5]江戸時代を迎えると1619年(元和5年)に福束輪中が形成されるが[5]、それに続いてこの地域の輪中も順に成立していく。

墨俣輪中の堤防は比較的早期に築堤されたと考えられ、揖斐川・長良川・犀川に面した西側・東側・北側の堤防は近世前までに完成したと見られるものの、南側の堤防は築堤に伴う周辺地域の水防上の悪影響の懸念などから折り合いがつかずに築堤できずにいた[1]。この地域で最も早く懸廻堤を完成させたのは1665年(寛文5年)の森部輪中(もりべわじゅう)であり[3][6]、墨俣輪中の懸廻堤の完成は1668年(寛文8年)であった[1]

墨俣・森部に続いて、揖斐川の中州には1705年(寛永2年)までに牧輪中(まきわじゅう)が形成される[3][7][8]。この3つの輪中が、この地域で比較的初期に成立した輪中である[3]
遊水地の開発

先行した3輪中の成立により堤外地に土砂が堆積するようになり、既存輪中よりも相対的に高位となった土地の開発が行われるようになるが、新たな輪中の成立は牧輪中から100年以上後になる[3][9]。これには堤外地への築堤によって既存輪中に水防上の悪影響が生じる懸念に加え、1754年(宝暦4年)の宝暦治水によって長良川の水位が上がったことなどによる排水の悪化といった事情により、新たな輪中形成の了解を得ることが容易ではなかったことが影響していると考えられる[9][9][10][11][12]

宝永年間に中村輪中(なかむらわじゅう)は最初の輪中らしい形態の堤防、中須輪中(なかずわじゅう)は尻無堤状態の堤防が築かれていた[10][9]。しかし、いずれも宝暦治水によって排水が困難となり新たな懸廻堤が必要となったが、周辺の輪中の理解が得られず難航し、中村輪中は1831年(天保2年)、中須輪中は1860年(安政7年)にようやく懸廻堤が完成し輪中が成立した[10][9]

周囲を中須川が流れる地域にある大明神輪中(だいみょうじんわじゅう)と北今ケ淵輪中(きたいまがふちわじゅう)についても同様で、懸廻堤の完成は大明神輪中が1857年(安政4年)であり、北今ケ淵輪中は1876年(明治9年)と明治時代に入ってようやく完成した[11][12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef