増田明美
[Wikipedia|▼Menu]

.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

松野明美」あるいは「増田明美 (アナウンサー)」とは異なります。

増田 明美
ますだ あけみ

2007年
選手情報
フルネーム増田明美
国籍 日本
種目長距離走
所属成田高等学校
川鉄千葉(現・JFE千葉)
法政大学
NEC
生年月日 (1964-01-01) 1964年1月1日(58歳)
生誕地千葉県いすみ市
身長150cm
体重39kg(現役時)
自己ベスト
3000m9分11秒95 (1983年)
5000m15分38秒29 (1982年)
10000m32分48秒1 (1982年)
マラソン2時間30分30秒 (1983年)

獲得メダル

陸上競技
日本
アジア選手権
金1981 東京3000m


編集 

増田 明美(ますだ あけみ、本名・木脇 明美[1]1964年1月1日 - )は、元女子マラソン陸上競技長距離走選手で、現在は大阪芸術大学芸術学部教養課程教授[2]スポーツジャーナリストスポーツライターレース解説者タレントナレーターなどで活動中である。1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン日本代表。佐々木七恵とともに1980年代前半の日本における女子長距離走の第一人者であった。
千葉県夷隅郡岬町(現・いすみ市)出身。
経歴
成田高校時代まで

専業農家の家庭に生まれ育つ。小学校は自宅から約2.5kmの距離があり、そこを歩いて通学したことに加え、しばしば登校中に忘れ物に気づき自宅まで走って取りに戻ったりしたことが、足腰や心肺能力を高めるきっかけになったのではないかと自ら述べている[3]。小学生時代は足が遅いという理由で運動会は嫌いだった[3]

中学校では、当時人気のあった漫画『エースをねらえ!』に憧れて軟式テニス部で活動していた[4]。2年生の冬、町内一周駅伝大会に中学でチームを組むに当たり、陸上部だけではメンバーが足りないために他のクラブからも選手が集められた際にその一人として参加、本番では高校生3人を抜いて優勝に導いた[4]。これを契機に3年生ではテニス部とかけもちの形で陸上部に所属し、千葉県大会の800mに千葉県中学記録で優勝、全国大会でも4位となる[5]。教員を志望していた増田は高校で陸上競技を続けるつもりはなかったが、走りを見た私立成田高等学校の陸上部監督である瀧田詔生[6] がその冬に自宅を訪れてスカウトし、同校に進学した。千葉県立佐倉高等学校の教員だった小出義雄も少し遅れて(小出によると「一週間差」)スカウトに来たという[7][8]。自宅から成田高校まで遠かったことから、瀧田の自宅にある離れに同学年で同じ中距離走の選手だった樋口葉子とともに下宿した[9]

高校1年生の2学期に貧血にかかり、瀧田からマネージャーへの転向を指示される[10]。それに反発した増田はいったん陸上部をやめて自宅に戻り、千葉県立長生高等学校への転校を考えたり(困難なために断念)、自宅から2時間半かけて成田高校に通学したりしたが、半年後に復帰[10]。「(マネージャー転向を指示した)瀧田を見返してやろう」という思いから猛練習を重ねる。
その成果が長距離に転向した3年生の1981年にあらわれた。4月19日に中央大学で行われた記録会で、10000m(33分20秒0)、5000m(途中計時16分48秒4)の日本新記録を出したのを皮切りに、兵庫リレーカーニバル(5000m、15分53秒2=日本新記録、途中計時の3000m・9分30秒6も日本新記録)、スポニチ国際陸上(3000m、9分14秒81=日本新記録)、アジア陸上競技選手権大会3000m、9分18秒17=優勝)など好記録を重ねた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:115 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef