logo増山城
(富山県)
増山城近景 西方向(城下町)から
別名増山城、和田城
城郭構造連郭式山城
天守構造?
築城主不明
築城年1363年(貞治2年)以前
主な改修者神保長職、上杉謙信、佐々成政、中川光重
主な城主桃井氏、斯波氏、神保長職、一向一揆勢、吉江宗信、佐々成政、中川光重、山崎長鏡
増山城(ますやまじょう)は、富山県砺波市、かつての越中国砺波郡・射水郡・婦負郡の三郡境付近にあった日本の城(山城)。旧名、和田城。国の史跡[1]。とやま城郭カードNo.38[2][3]。続日本100名城[4]。
名誉城主は、落語家の春風亭昇太[5]。 増山城 和田川右岸の山上に築かれた山城であり、松倉城(魚津市)、守山城(高岡市)と並び越中三大山城と称された。 南北朝時代の貞治2年(1363年)、『二宮円阿軍忠状』に「和田城」として史料に見えており、はじめ桃井直常方の勢力が守備していたが、後に幕府軍により攻略されたとみられる。 戦国時代には神保氏の重要拠点として知られ、永禄3年(1560年)に神保長職が上杉謙信により富山城を攻略された後、増山城に立て籠もった。この時の謙信書状に「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニも手堅相抱候間」とあるように、要害堅固な城であった。 永禄5年(1562年)に長職が上杉氏に降伏した後は、増山城が神保氏の本拠地となるが、神保家の反上杉派が一向一揆と結んで抵抗したため、天正4年(1576年)、上杉謙信により攻略された[6]。天正6年(1578年)の御館の乱では、上杉景勝方の吉江宗信が増山城を守る。
概要
前田氏治下には中川光重、山崎長鏡が城代を務めたが、元和の一国一城令により廃城となったとみられる。
2009年(平成21年)7月23日、国の史跡に指定。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(135番)に選定された。
2020年(令和2年)12月24日、砺波市が発行する「とやま城郭カードNo.38・増山城」が、好評により初版の1000枚を配布しつくしたため、新たに「特別バージョン(桜色)」が発行された[7]。
年表
貞治元年(1362年) 二宮円阿が和田城(増山城の前身)を警固する。
永正3年(1506年) 芹谷の合戦(般若野の戦い) 長尾能景が一向一揆勢力と対決し、討死する。
永禄3年(1560年) 長尾景虎が越中に侵攻し、富山城主神保長職が追撃に逢い、増山城に落ちのびる。
永禄5年(1562年) 神保長職が再起した為、再び上杉謙信が増山城を攻め、長職は降伏した。
永禄11年(1568年) 増山城の神保長職が上杉氏と結び、一向一揆と戦う。
元亀3年(1572年) 一向一揆勢力が増山城に拠る。
天正4年(1576年) 上杉謙信が増山城を攻略。上杉氏武将・吉江宗信が城主となる。
天正9年(1581年) 織田勢による増山城の焼き討ち
天正11年(1583年) 佐々成政が越中を平定する。
天正13年(1585年) 佐々成政が増山城を普請する。豊臣秀吉が越中に侵攻し、佐々成政が降伏する。増山城は前田氏の領有となる。