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増上寺
三解脱門(重要文化財)
所在地東京都港区芝公園4丁目7番35号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分26.7秒 東経139度44分53.8秒 / 北緯35.657417度 東経139.748278度 / 35.657417; 139.748278座標: 北緯35度39分26.7秒 東経139度44分53.8秒 / 北緯35.657417度 東経139.748278度 / 35.657417; 139.748278
山号三縁山(さんえんざん)[1]
院号広度院[1]
宗旨浄土宗
宗派鎮西派
寺格大本山
本尊阿弥陀如来
創建年明徳4年(1393年)
開山聖聡[1]
中興源誉[1]
正式名三縁山 広度院 増上寺
札所等江戸三十三箇所21番
文化財三解脱門、紙本著色法然上人絵伝ほか(重要文化財)
徳川家霊廟
公式サイト増上寺 公式ホームページ (日本語)
法人番号7010405001420
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2021年11月にチタン瓦葺きで再度落慶した大殿(本堂)大殿の扁額東京タワーより境内を望む。中央が大殿境内の鳥瞰図(1901年(明治34年))
増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。 9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという[2][3]。 室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた[2][3]。この聖聡が実質上の開山と言える。
歴史
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、酉誉聖聡を継いで増上寺2世となった聡誉酉仰は甥であったと伝えられている。酉誉聖聡・聡誉酉仰共に千葉氏の出身とされていることから、千葉氏の庇護を受け、後に地元の領主であった江戸氏や太田氏の庇護を受けたという。なお、前述の釋誉存冏や同門の楽誉聡林、聡誉酉仰の弟子である讃誉空山も千葉氏の出身と伝えられており、初期増上寺と千葉氏の間に密接な関係がうかがえる[5]。宝徳3年(1451年)には音誉聖観が3世となるが、間もなく享徳の乱に巻き込まれることになり、康正元年(1455年)には長尾景仲を追討する鎌倉公方足利成氏が増上寺に陣を構え、文明3年(1481年)には戦火で焼失したとされている。その後、隆誉珠阿・天誉了聞・僧誉智雲・親誉周仰・杲誉天啓・道誉貞把が増上寺を継いでいる。彼らは太田氏やその主筋の上杉氏に近く、親誉周仰は世田谷の吉良氏出身であることが知られている[6]。
永禄6年(1563年)、後北条氏の重臣・大道寺政繁の甥で杲誉天啓の門下にあった感誉存貞が10世に就任する。存貞は後北条氏との関係を強める一方で増上寺の再建と綱紀の粛正を図った[7]。その後は、筑後国の中西氏(菊池氏の庶流)出身で、感誉存貞から大長寺を譲られるなど信頼の厚かった門弟の雲誉円也が11世に就任している[8]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに東照宮御実紀附録の原文「君(徳川家康)御気色よく、当家の宗門は代々浄土にて、三河にては大樹寺をもて香火院としつれど、当地にてはいまだ定れる寺なし、幸この寺同宗の事なれば、当寺をもて菩提所とせむと思ふ、よろづ供養の事和尚に頼むなりと仰せければ、存応も世にかしこき事に思ひ、感涙袖をうるほしける、さて師壇の御契約はこの時に定まり、後に寺を今の芝浦に引移され、慶長十年はじめて堂塔剏建ありて、一宗の本山として代々の大道場となされしなり、〈啓運録、事跡合考、〉」があります。
通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、12世源誉存応と対面したのが徳川家の菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。ただし慶長7年頃の江戸を描いたとされる『別本慶長江戸図』には後の西の丸下、日比谷入江に面する箇所に「僧正殿」との記述がありこれを増上寺とする説がある。