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墓(はか、: tombあるいはgrave)は、遺体遺骨を葬ってある場所[1]。「墳墓(ふんぼ)」「墳塋」(ふんえい)ともいう。
概説

墓は、遺体や遺骨を葬ってある「場所」のことを指す。一般に、そこに墓があることを示す「墓標」(ぼひょう)が地位を証明させる。墓標というのはやや抽象的な表現だが、具体的にはたとえば墓碑墓石などのことである。墓標を置かない事で地位を表さない墓も存在する。

祖先を遡れば石器時代など、墓は、遺体を地面に埋めその上に土を「盛り上げ」(土が盛り上がる事で目印となる)それを墓とすることもあった。これを塚といい土を盛り上げた墓を「墳墓」(ふんぼ)と言う様になった。(それが転じて、やがて墓全般の意味で「墳墓」とも言うようになった。だがもともとの意味はあくまで土を盛り上げた形の墓である。)

古い墓としては、旧石器時代中期のムスティエ文化のものが知られている[1]フレデリック・ショパンの墓
フランスパリペール・ラシェーズ墓地)。ショパンを偲ぶ人々のたむけるが絶えない。
宗教ごとの墓

宗教ごとに死生観が異なり、墓の様式も異なる。

たとえばキリスト教徒最後の審判の時に復活することを望み、もともとは遺体をそのまま埋める土葬を好み、遺体をそのまま埋める墓をつくることを好む。(近年は例外も多い)

イスラム教ではクルアーンにさまざまなことが定められており火葬は認められていない。したがって土葬の墓である。

仏教では一般に火葬し遺骨を墓に納める。仏教は(インドの宗教では一般的な)輪廻の考えを含んでおり魂を遺体から解放することがあり釈尊も火葬されたと伝わっているので、世界の仏教徒たちは基本的に火葬し墓に納める(あるいは火葬して、墓をつくらず散骨する)。
例外的な墓

なお、かつてなどの権力者は大きな墓を築くことが多かった。それらは単に死者を祀る場ではなく、故人の為した業績を後世に伝えるモニュメントとしての性格も帯びる。王や皇帝の、丘のような形になっている墓は「陵墓」と呼ぶ。人類の大多数を占める、普通の人々、普通の庶民の墓とはかなり異なったものとなっている(なお何世紀もの年月を経て樹木が生い茂るなどして、そこが墓であったことが忘れ去られてしまうものも多い。考古学者の探索・研究の対象となる)。

古代エジプトファラオが建造させたギザの大ピラミッド石棺がおさめられている。1979年世界遺産メンフィスとその墓地遺跡』の一部となった。

中国秦の始皇帝の巨大陵墓および兵馬俑坑は、1987年に『秦始皇帝陵及び兵馬俑坑』として世界遺産になった。

一方、2000年代に入りインターネットの普及に伴い、日本・中国などでは、さまざまなサービスが登場し、遺骨を共同墓所に納めると、ブラウザの画面で墓の映像が見れ、それで「墓参」をできるものや、実物写真でなく架空の写真が表示され「墓参」できるものなどが登場した。記帳ができるものもある。専門業者、寺院などにより運営されている。現代の一般人の墓はこのように、一部で物理的実体をできる限り省くような方向で変化しはじめている。
墓をつくらない例

なお、墓を設けるのは人類共通の習慣ではなく、墓をつくらない民族・文化もある。インドヒンドゥー教徒たちは、遺体を火葬した後に遺灰・遺骨をガンジス川に流して、墓を設けない。また墓を建てても、子孫らがそれに継続的に参拝するとは限らない。
墓と墓でないものの線引き

なお、遺体や遺骨を納めていない場所は通常、墓とは区別して扱い、別物として扱う。たとえば、死者の霊を慰めるために慰霊碑が造られたり、また中国においては、遺骨類を納めない、祖先の霊を祀るためのが建設されたわけだが、これらは通常「墓」とは区別し、「墓」には分類しない。そこに行く人の「気持ち」としては故人を偲んでいるので、ほぼ同様の気持ちではあるが、学術的にはあくまで別物として扱う。

また位牌を集めて納めておく場所である位牌堂も墓には分類しないし、仏壇も墓には分類しない[1](仏壇の引き出しなどに故人の遺髪などを保存しておくこともあるが、それでも墓には分類しない)。
各国の墓
日本東京都新宿区・宗福寺にある源清麿の墓。戒名が大きく刻まれ、卒塔婆が立てられるなど、伝統的な日本式の墓である。

上代の日本では墓を「奥都城」「奥津城」(おくつき)と呼んでおり、これにならって、神道墓をそう呼ぶ。

日本においては(神道信者によって、墓のかわりに)神社が創立されることもある(神社については「人神」を参照)。仏教信者の場合は(菩提を弔うため)仏教寺院が建立されることがある(たとえば後醍醐天皇の菩提を弔うため足利尊氏天龍寺を建立した[2]。ただし概説でも説明したが、これらは一般に「墓」には含めない。そこに行く人の気持ち(感情)は同じようなものでも、やはり別物として扱われる。学術的にも別物として扱われる。)

日本には「面積で世界最大の墓」とされる大仙陵古墳(仁徳天皇陵、大阪府堺市)がある。
柳田民俗学の解釈とその問題、改善点

日本における墓制は、柳田國男民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている)。そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。なお、「埋葬」とは、死体を土中に葬ることである。(墓地、埋葬に関する法律第2条)[3]

しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、『「お墓」の誕生』(岩波新書)の中で、墓制を
遺体の処理形態(遺体か遺骨か)

処理方法(埋葬か非埋葬か)

二次的装置(石塔の建立、非建立)

の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。亀甲墓(沖縄県)

日本でも沖縄では、亀甲墓(かめこうばか、きっこうばか)や破風墓(はふばか、家型の墓)など、中国南部風の、本州と異なる墓も見られる。亀甲墓の形状について、「人は死んだら再び母親の胎内に戻っていくという趣旨で、その胎内をかたどったもの」という説明がよくされるが、俗説である。沖縄では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。風葬も参照(現在でも沖縄県の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する)。宮古島石垣島には、崖下墓があり、宮古島市島尻には3つの郭がある、石組み、グスクで囲った大きな墓(長墓)があり、多数の骨があるが、祭祀が行われたかは不明である。最近、科学のメスが入れられつつある。また、過去には沖縄と似た墓制であった奄美群島は、現在では本土の墓制に準拠しており、風葬などは行われていないが、奄美大島には沖縄本島から移植された「城間トフル墓群」と呼ばれる墓群がある。
近代以降のお墓山の中に林立する墓石群(兵庫県姫路市・景福寺山)住宅街に囲まれた都市部の墓地明石市


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