境部摩理勢
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 凡例蘇我 境部摩理勢
時代飛鳥時代
生誕不明
死没推古天皇36年(628年
主君推古天皇
氏族蘇我境部
父母父:蘇我稲目
兄弟蘇我堅塩媛蘇我馬子蘇我小姉君
蘇我石寸名、境部摩理勢、蘇我小祚
雄摩侶?、毛津、阿椰
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蘇我 境部摩理勢(そがのさかいべのまりせ)は、飛鳥時代豪族蘇我稲目の子、馬子の弟(一説に馬子の従弟ともいう)。軽の境部[1](現在の橿原市白橿町、または大軽町)に居住したために境部臣と呼ばれた。
経歴

日本書紀によると、推古天皇8年(600年)、征新羅大将軍に任ぜられ、副将軍の穂積祖足と共に1万余の兵力で対馬海峡を渡って新羅に侵攻して5つの城を攻略し、新羅王を降伏させた[2]。ただし、日本書紀の当該部分に「境部臣」とのみあり個人名を欠くこと、この件について日本書紀以外の史料が存在しないことにより、この件における「境部臣」を境部摩理勢とする説、境部雄摩侶とする説が並立し、確定は不可能である[3]。「新羅征討計画#第1次新羅征討」も参照

大臣である兄・蘇我馬子と共に推古天皇・厩戸皇子(聖徳太子)の執政を支えるが、その過程で聖徳太子一族(上宮王家)との結びつきを深めた[4]。馬子の死後は、子の蘇我蝦夷が大臣を継いで朝政を主導するが、摩理勢も蘇我氏族内の有力一門として発言力を保ち、蘇我氏内部においても朝廷政治においても蝦夷の対抗勢力となり、次第に対立を深めていく。

推古天皇36年(628年)3月、推古天皇は崩御の直前、有力な皇位継承候補となる2人の皇子を病床に呼び寄せた。押坂彦人大兄皇子の子田村皇子(後の舒明天皇)と、聖徳太子の子山背大兄王である。田村に対しては「慎み深く言動に気をつけよ」と諭し、山背大兄に対しては「あなたはまだ若く未熟なので群臣の意見を聴きなさい」と遺言した。蘇我蝦夷は、この遺詔から、推古の思惑は田村皇子後継にあったと考え、田村を次期大王として擁立する。しかし上宮王家の後見人である境部摩理勢は、これに真っ向から反対し、山背大兄を推薦し、山背大兄も大王継承に積極的に名乗りをあげた。しかし摩理勢に同調する勢力は伯瀬仲王(山背大兄の異母弟)や佐伯東人ら僅かであり、蝦夷の懐柔政策も功を奏したため、結局山背大兄は大王継承を辞退する。この情勢に怒った摩理勢は、従事中であった馬子の墓造営の任務を放棄し、「蘇我の田家」なる施設に立て籠もって公然と蝦夷に反旗を翻した。その後、摩理勢は伯瀬仲王邸へ入り抵抗を続けた。やがて山背大兄の説得により自邸に戻るが、ほどなく伯瀬仲王が死去し、後ろ盾を失った。蝦夷は摩理勢を攻め、摩理勢は来目物部伊区比なる者に絞殺されたという。
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父:蘇我稲目 

母:不詳

妻:不詳

子:境部雄摩侶(さかいべ の おまろ)?

子:境部毛津(さかいべ の けつ)

子:境部阿椰(さかいべ の あや)


脚注[脚注の使い方]^ 軽之境岡宮(かるの さかいおかの みや)
^ 黒板勝美(編)「巻第廿二 豊御食炊屋姫天皇(推古天皇):境部臣等新羅を討つ」『訓読日本書紀 下』岩波書店、1928年、110-119頁。 
^ 鈴木正信『境部氏と境界画定について(成城文藝 第260号)』(PDF)成城大学文芸学部、2022年12月、4頁。https://www.seijo.ac.jp/education/falit/grant-book/jtmo4200000072xz-att/001-028_1.pdf。 
^ 内藤湖南『日本文化史研究(上)』講談社学術文庫、1976年、P.84頁。 

参考文献

国史大辞典』(吉川弘文館)「境部摩理勢」(執筆:門脇禎二

『日本史大事典 3』(平凡社1992年ISBN 4582131034)「境部摩理勢」(執筆:日野昭)

日本書紀』巻二十三舒明天皇即位前紀

関連項目

新羅征討計画


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