塹壕戦
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この項目では、野戦時に造られる壕について説明しています。城の周囲に予め造られた壕については「」をご覧ください。
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出典検索?: "塹壕" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年5月)
1916年ソンムの戦いにおけるイギリス軍の塹壕。右の見張りの兵士以外は休息を取っている。

塹壕(ざんごう、: tranchee、: trench、: Graben)は、戦争において敵の銃砲撃から身を守るために陣地の周りに掘るまたはである。

野戦においては南北戦争から本格的に使用され始め、現代でも使用されている。日本陸軍では散兵壕(さんぺいごう)と呼んだ。個人用の小さなものは蛸壺(タコツボ)、蛸壺壕フォックスホール英語: foxhole)と呼ばれる。

戦闘陣地の一種と位置付けられる。簡素な手掘りの穴から、有刺鉄線土塁土嚢、木材、コンクリートなどで補強された野戦築城まで、様々な様式が存在する。
歴史

外敵の侵入を難しくするために、集落や城砦、軍営などに堀や壕、濠(水を湛えたもの)を設けることは古来行われてきた。日本では環濠集落の遺構が各地で出土している。古代ローマでは野営地(カストラ)の周囲に堀を掘ることがあった。

本格的な塹壕戦は、627年中東で行われたハンダクの戦いが嚆矢と言われている。イスラム教の開祖ムハンマドは、メディナへ侵攻するメッカ連合軍の騎兵部隊を妨害するため、ペルシア人技術者のサルマーン・アル=ファーリスィーに命じマディーナの周囲に塹壕(ハンダク ???? ?andaq/Khandaq)を掘らせて、攻撃に備えた。当時の中東では、騎兵による一騎打ちが伝統的な戦いであり、攻城戦の概念がない連合軍は攻略に手間取った。連合軍はメディナ周囲の砂漠で野営を続けたことにより消耗し、最終的に攻略は断念された。このためサルマーンは、アラブ諸国の軍隊で世界初の工兵とされている。なお、塹壕を掘るための金属製シャベルを発明したのもサルマーンで、世界初の塹壕戦からシャベルは武器としても使用されていた。サルマーンが使用していたシャベルは現在でもエジプトにあるモスク(サルマーンの墓でもある)に聖遺物として安置されている。

このように、初期の塹壕は防御側が攻城側の進攻を防ぐ目的で掘られたが、火縄銃などの火器の普及以降は、攻城側が防御側からの射撃を避けるために利用するなど、共に塹壕を掘るようになった。ヨーロッパにおいては、野戦でも使われるようになった。イタリア半島で行われたチェリニョーラの戦い1503年)では、塹壕から射撃したスペイン軍の火縄銃兵が、フランス軍騎兵とスイス傭兵槍部隊の突撃に勝利した。また、日本の戦国時代における長篠の戦い1575年)においても、織田信長徳川家康の連合軍は、火縄銃兵の隊列前面に「乾堀(かわきぼり)」と呼ばれる身を隠す土居を築いたと『三州長篠合戦記』に記されており、名和弓雄は、有名な馬防柵より武田勝頼軍の突撃阻止には効果的だったとの見解を示している[1]。大坂冬の陣図屏風にも真田丸からの銃撃に対して塹壕戦で対抗する徳川方が描かれている。

大砲の発達と築城術の向上で巨大な要塞が生まれ、それに対抗する攻城術も生まれた。17世紀後半の代表的な攻城術は次のようなものである。
要塞に対して複数の包囲網を敷く。

内側で要塞の城壁に平行な壕(平行壕)を掘る。

これを起点として塹壕(交通壕、斜壕とも)を掘りつつ要塞に接近する。

塹壕は要塞からの縦射を避けるためにジグザグに掘る事が多かった。ある程度要塞に近づいたら第2、第3の平行壕を掘り、再び斜壕を掘って要塞へとにじり寄る方法がとられた。
中世から近世

中世に発明されたは改良を続け、近世には銃剣の発明により、歩兵の武器は小銃に統一された。その一方で、刀剣や銃剣を利用しての白兵戦も盛んに行われていた。この当時の銃はまだライフリングがないマスケット銃であり、命中精度が低かった[2]。また、前装式のため装填に時間がかかり、歩兵同士での撃ち合いでは決着が付けにくかった。近代においても、隊列を組んだ戦列歩兵が「敵の白目が見える」ような至近距離まで伏せることもなくそのまま行進し、一斉射撃を交した後に着剣小銃で突撃し、決着は白兵戦で付けられた。

このため、塹壕は限定的にしか使われず、攻城戦において防衛側から一方的に浴びせられる銃砲撃から、攻め手側を守る時以外では使われなかった。
戦争の近代化と塹壕戦の発生

戦争の近代化は、戦場において兵士銃弾から身を隠す必要性を増大させた。既に19世紀南北戦争クリミア戦争では、銃火器の有効射程が大幅に増したため、兵士は塹壕や掩蔽壕に隠れる必要性に迫られた[3]。連続射撃では視界を奪うほどの白煙を生む黒色火薬[4]が、視界を妨げず、残渣が少なく銃腔内を汚しにくい上に威力も増した無煙火薬に取って代わられた[5]

さらには後装銃の普及[6]武器弾薬の生産力補給力の増強、さらには火力の密度が増したこと[7]、命中率の高いライフル銃の普及により、遠距離から狙撃されるようになった[8]20世紀にさしかかる頃には、手動式連発銃の普及と弾薬供給力のさらなる増強で、火力の密度がより増した。ガリポリの戦いで、塹壕の中から潜望鏡付き狙撃銃を操作するオーストラリア軍歩兵。右はやはり潜望鏡を持った観測手(1915年)

第一次世界大戦においては、機関銃の大規模運用により、歩兵や騎兵による正面突撃を確実に撃退しうる火線が完成したこと[注釈 1]、発達した鉄道網による迅速な増援・補給が行われた[注釈 2]ことによって、従来の戦術で塹壕地帯を突破することは困難になった。


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