塩野義製薬
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塩野義製薬株式会社
SHIONOGI & CO., LTD.

本社
種類株式会社
機関設計監査役会設置会社[1]
市場情報東証プライム 4507
1949年5月16日上場
略称シオノギ、塩野義[2]
本社所在地 日本
541-0045
大阪府大阪市中央区道修町3-1-8
設立1919年6月5日
(株式会社塩野義商店)(創業:1878年3月17日)
業種医薬品
法人番号9120001077430
事業内容医薬品、診断薬などの製造・販売
主な商品を参照)
代表者代表取締役社長 手代木功
資本金212億79百万円
(2021年3月末現在)
発行済株式総数3億1158万6165株
(2021年3月末現在)
売上高連結:2971億77百万円
単独:2609億86百万円
(2021年3月期)
営業利益連結:1174億38百万円
(2021年3月期)
純利益連結:1118億58百万円
(2021年3月期)
純資産連結:6836億47百万円
(2021年3月末現在)
総資産連結:7736億50百万円
(2021年3月末現在)
従業員数連結:5,680人
単独:2,458人
(2023年3月末現在)
決算期3月31日
会計監査人EY新日本有限責任監査法人[3]
主要株主日本マスタートラスト信託銀行株式会社(信託口) 18.27%
日本カストディ銀行株主会社(信託口) 6.22%
住友生命保険相互会社 6.17%
SMBC信託銀行会社(信託口) 3.14%
主要子会社シオノギヘルスケア株式会社
シオノギファーマ株式会社
株式会社UMNファーマ
関係する人物塩野義三郎(創業者)
吉利一雄(元社長)
外部リンク塩野義製薬
特記事項:経営指標は 2018年3月 第153期 有価証券報告書
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塩野義製薬株式会社(しおのぎせいやく、英語: SHIONOGI & CO., LTD.)は、大阪府大阪市中央区道修町三丁目に本社を置く、日本国内の大手製薬企業であり、処方箋医薬品一般用医薬品を主とする製薬企業である。公式の社名略称としてシオノギ製薬、あるいはシオノギも用いられている[4][注釈 1]

社名の由来は、創業者の塩野義三郎の名に因むもの[注釈 2]。ロゴマークは、天秤で薬量を正確に計量するために用いられた分銅に由来している[注釈 3]。2022年7月に現代的且つ視認性向上を目的に再デザイン(マイナーチェンジ)された[5]
概要塩野義製薬ロゴマーク

2017年7月時点の時価総額は、武田薬品工業アステラス製薬大塚ホールディングス中外製薬に次いで医薬品セクターで5位に位置する。日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ[6][7]JPX日経インデックス400の構成銘柄である。
創業

創業者の塩野義三郎が、1878年(明治11年)3月17日に、大阪・道修町にて薬種問屋「塩野義三郎商店」を開く[注釈 4]。塩野家と道修町との関係は、義三郎の祖父・初代吉兵衛[注釈 5]が、1789年、道修町の薬種商「塩野屋藤兵衛」家に12歳で奉公に出た時に始まる。初代吉兵衛は、1808年、塩野屋藤兵衛の別家として、言わば「のれん分け」というカタチで、塩野屋吉兵衛を名乗ることとなる。"塩野"姓を名乗るのは、続く二代目吉兵衛の時である(1872年)。なお、塩野屋という屋号自体は、道修町に残る最も古い文書(1658年)にも記載されており、道修町でも古いのれんを誇っていた。また、塩野義三郎の本家にあたる塩野屋吉兵衛は明治末期に香料へ事業を転換し、塩野香料として道修町で営業を続けている。
和漢薬問屋から洋薬専門メーカーへ

創業当初は和漢薬専門であったが、明治維新後の西洋医学普及に伴い、洋薬の需要が高まると共に、1886年、和漢薬専門から洋薬のみを取り扱う方針に切り替える。そして1909年には、自家新薬第一号として「アンタチヂン」(健胃制酸薬)を製造販売する。翌1911年には、1909年にドイツで開発された「サルバルサン」(梅毒治療薬)を輸入販売している。さらに1912年には強心剤「ヂギタミン」、1917年には睡眠鎮静剤「ドルミン」、1918年には下剤「ラキサトール」などを次々と製造販売する。また家庭用医薬品として、1926年皮膚病新薬「オイロ」、1929年に水虫専用薬「ポンホリン」、1931年薬「カヴィドール」、1933年狭心症薬「ハセスロール」などの製品を販売する。この他、大日本臓器研究所(現・日本臓器製薬)が製造していた増血薬「マスチゲン」を取り扱ったり、また独・バイエル社の代表的薬品として知られるアスピリンのライセンスを得て、「シオノアスピリン錠」として、国内で製造販売するなどしていたことがある。
工場竣工・法人化

医薬品製造工場として、1892年に、相生工場[注釈 6]、1910年には塩野製薬所[注釈 7]1921年には浦江試験所[注釈 8]1922年には杭瀬工場[注釈 9]を建設する。同時に販路を全国に拡大するための営業活動を展開しつつ、1919年に法人としての、株式会社 塩野義商店への改組を経て、1943年に現商号に変更、総合的な医薬品製造販売メーカーとしての基礎を固めた。
抗生物質へ本格参入

第二次世界大戦直後、シオノギは製薬業界の花形商品となった抗生物質ペニシリンの開発を試みたが、技術面・資金面ともに力不足だったため、止む無く断念した。しかしその後も抗菌薬の研究を怠ることなく、処方箋医薬品市場が抗菌薬全盛時代を迎えた1980年代後半にかけて、抗菌薬で売上高首位を記録する[注釈 10]

主力となったのは、1960年代に新たに開発されたセファロスポリン系(セフェム系)抗生物質である。シオノギでは、製造元の米・イーライ・リリーから、発売間もない新製品を次々と導入し、自社で製品化していった。また自社研究所で創薬に成功したことで、シオノギは輸入商社としての機能に加えて、製造(製剤)能力および研究能力を兼ね備える一大医療薬品メーカーに成長した。
抗生物質薬市場衰退

シオノギは、医療用医薬品市場の重点疾患領域として、感染症領域、がん疼痛緩和領域、そして循環器領域を主力としていた。

一方で、感染症治療薬の使用量は1980年代に入ると、抗菌薬濫用による薬剤耐性菌に対する懸念から横ばい状態となり、1990年以降大幅に減少した。それに伴い、抗生物質依存度の高かったシオノギの業績は急激に落ち込んだ。それを救ったのが、クレストールである。

クレストールは1991年にシオノギで創製後、1998年にアストラゼネカが開発を引き継いだ、HMG-CoA還元酵素阻害剤(脂質異常症治療薬)である。日本での承認は2005年であり、2009年10月では、100か国以上で承認及び80か国以上で販売されている。シオノギに入る特許料も大きく、同社は2010年以降業績を大きく持ち直した。

シオノギと医療用麻薬とのつながりは、麻薬生産者協会5社のうちの一社として、1948年に、モルヒネなどオピオイドの製造販売を開始したことに始まる。1989年には「WHO方式がん疼痛治療法」で必要な、MSコンチン錠(モルヒネ徐放錠)[8]を発売。2003年には、オキシコンチン錠(オキシコドン徐放錠)、さらに2007年には、オキノーム散(オキシコドン散剤)を発売する[注釈 11]。MSコンチン錠とオキシコドン各製剤は、共に「がん性疼痛治療薬」として、基本となる薬剤(成分および剤型)である。
業界屈指の営業部隊

種々の方法で製品化された有用な医薬品を、医療の最前線に届けるのは営業マン(プロパー)の仕事である。シオノギの営業と言えば、抗生物質全盛時代には最強の営業部隊として知られていた。文献検索や学会発表用のスライド作成だけではなく、学術的な発展のためにも処方元の医師のために限界までつくしたと言われている。そのプロパーのことを、シオノギでは当時すでにディテールマン[9][注釈 12]と呼んでいた。例えば、自社抗菌薬の特性を論理的に説明(ディテール)する手助けとして、「PK/PD理論」のさきがけともなる考え方を世界に先駆けていち早く採用[10]していた。

製薬業界全体で、プロパーの呼称をMR(医薬情報担当者)と改めたのは1993年のことである。そしてその後の、国家公務員倫理規程の強化、女性MRの台頭、さらには日本製薬工業協会の申し合わせにより接待行為の全面禁止が2012年4月1日から実施されるなど、医療関係者(特に医師)とMRとの関係は急速に変化してきている。そうした中で、シオノギでは2012年初頭から、ディテールマン(医科向け営業マン)の属していた「学術部」の呼称を廃止している。

1886年の洋薬転換後、「シオノギ」ブランド[注釈 13]で数多くの家庭用医薬品を取り扱っている。戦後に入ると、これら戦前からの家庭用薬品からは撤退し、1961年大阪市福島区の工場を研究所に格上げすると共に、病院向け抗生物質へ本格参入。抗生物質分野でのシェアを不動のものとする。

取り扱う医薬品の97%が医療用医薬品で占めており、主力は、高脂血症治療薬・抗生物質・癌性の疼痛治療薬である。かつては医薬品業界における同社のイメージと言えば、「抗生物質(抗菌剤)」と「強力な営業部隊」で知られ、かつて、抗生物質全盛の時代には、快進撃を続けていた医薬品メーカーであった[注釈 15]

しかし、売り上げを抗生物質に大きく依存していたため、薬剤耐性菌の問題が取り沙汰されて抗生物質自体の売れ行きが鈍くなると、一時急激な減益。先行きが危ぶまれたが、高脂血薬のクレストール開発販売が成功した2010年以降、急速に業績を回復しつつある。
沿革メーデーに参加する労働組合員(1949年5月1日)

1878年3月17日 - 大阪・道修町にて和漢薬問屋「塩野義三郎商店」として創業される。

1886年 - 洋薬問屋へ移行。

1909年 - 分銅マークを商標登録。

1910年 - 大阪府大阪市福島区鷺洲に工場(現:中央研究所)を竣工。

1919年6月5日 - 塩野義三郎商店と塩野製薬所を合併し、株式会社塩野義商店に組織変更。

1922年 - 兵庫県尼崎市杭瀬に工場を竣工。

1944年 - 大阪府豊中市に神崎川工場(現:新薬研究所)を竣工。

1943年7月 - 塩野義製薬株式会社へ社名変更。

1945年 - 塩野義化学工業株式会社を合併、当社の赤穂工場となる。

1948年 - 薬用歯磨きの販売で、現在のサンスターと提携。

1949年 - 東京証券取引所並びに大阪証券取引所株式上場

1950年 - 鎮痛薬「セデス」を発売。

1953年 - 総合ビタミン剤「ポポンS」を発売。

1957年 - 向精神薬の合剤「ベゲタミン」を発売。

1963年 - 動物薬品部・植物薬品部を設置。

1964年8月31日 - フジテレビ一社提供番組『シオノギ・ミュージックフェア』放送開始。

1968年 - 大阪府摂津市に物流センターを備えた摂津工場を竣工。

1969年 - サンスターとの提携解消。

1978年 - 創業100周年。

1983年 - 岩手県胆沢郡に金ヶ崎工場を竣工。

1998年7月1日 - 卸子会社11社を合併・再編し、オオモリ薬品株式会社となる。


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