塩谷郡
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日本 > 栃木県 > 塩谷郡
栃木県塩谷郡の範囲(1.塩谷町 2.高根沢町 黄:明治期 水色:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入された区域)

塩谷郡(しおやぐん)は、栃木県下野国)の

人口37,956人、面積246.93km²、人口密度154人/km²。(2024年4月1日、推計人口

以下の2町を含む。

塩谷町(しおやまち)

高根沢町(たかねざわまち)

郡域

上記の2町のほか、1878年明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。

矢板市(沢、豊田、成田を除く)

日光市(高徳、柄倉、小佐越、鬼怒川温泉滝、日蔭、上栗山、野門、川俣以北)

那須塩原市(下大貫、上大貫、高阿津、千本松、遅野沢、接骨木、横林、上横林、折戸、蟇沼、塩原、中塩原以西)

さくら市(下河戸、穂積、上河戸、南和田、金枝、鹿子畑を除く)

矢板市、さくら市の例外となっている地域は後に那須郡から編入されている。その他にも那須郡との境界変更が行われている。
歴史
地名の呼称

下野国の塩谷(最初は『塩屋』)は、大化の改新の古くから「しおのや」と呼ばれており、平安時代中期に編纂された和名抄では『志保之夜(シホノヤ)』と注釈され、当時管内には山上(ヤマカミ)、片岡(カタヲカ)、阿會(アエ)、散伎(サキ)、山下(ヤマシタ)、餘戸の6郷があった。これを示すいくつかの和歌も残されている[1]

塩ノ谷ノ八塩ノウチノ貢物 思エハ遠クミツル物哉  天武天皇

塩のやの八塩の里の貢物 思ひば遠く来つるもの哉  草壁皇子

塩のやの月かけ清みあこかれて 蜒(えん 海人の事)ならぬ身もやとりさだめず  藤原躬鶴

磯ならぬこの塩のやの松がえも 志からむ藤の浪はかけけり  円治花門

蜒ならぬこの塩のやの山賊も 木こりの炭やきいとまなからむ  板橋住

浦遠き山田も賊が心にて みちひる水や塩のやの里  詠み人しらず

蜒が子の袂ならねど塩のやの 里の卯花くたす五月雨  高階友篤

そのため、下野国塩谷郡を拠点とした氏族の塩谷氏は『しおのや』と名乗っており、藤姓塩谷氏の初代である塩谷朝業も『承久記』巻一において『しほのや兵衛朝業』と記されている[2]。下野以外で塩谷あるいは塩屋とある地名については、ほとんどの場合「しおや」と呼称されるのが一般的であったため、特異な例であると言える。

その後、地名としては「しおや」と「しおのや」の呼称が混在する状態が続くが、江戸時代末期に編纂された下野国誌[3]においても、当地にあった塩谷城(川崎城)が「塩ノ谷城」と記載されているため、江戸時代に至っても地名の呼称の混在が続いていたものと考えられている。現在は正式な地名の呼称としては「しおや」が通用されているが、地元の愛称として「しおのや」あるいは「塩野谷」の呼称が用いられる事もある。
近代以降の沿革

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は真岡代官所が管轄。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。(1町149村)

知行村数村名
幕府領幕府領11村飯室村、関俣村、柿木沢村、柿木沢新田、狭間田村、狭間田新田、松山村、松山新田、栗ヶ島村、太田村、寺渡戸村
旗本領19村平田村、西高谷村、上柏崎村、亀梨村、前岡村、鷲宿村、田野原村、●東泉村、上伊佐野村、下伊佐野村、精進内村、山田村、土屋村、●木幡村、小泉村、荒井村、川中子村、塚原村、中柏崎村
一橋徳川家領2村上高根沢村、桑窪村
藩領下野宇都宮藩52村宝積寺村、石末村、上阿久津村、中阿久津村、氏家新田村、氏家村、馬場村、河原新田[4]、長久保新田、桜野村、大谷村、上野新田、根本新田、谷中新田、箱森新田、蒲須坂新田、玉田村、押上村、肘内村、田所村、金枝村、原荻野目村、芦場新田、道下村、風見山田村、大久保村、上平村、風見村、泉村、大宮村、飯岡村、上沢村、長井村、立足村、平野村、幸岡村、川崎反町村、境林村、館ノ川村、高塩村、下寺島村、上寺島村、鳥羽新田、熊ノ木村、喜佐美村、倉掛村、片俣村、塩田村、玉生村、東房村、佐貫村、船生村[5]
下野喜連川藩1町
14村平三郎村、葛城村、文挟村、伏久村、鍛冶沢村、喜連川町[6]、早乙女村、小入村、松島村、東乙畑村、西乙畑村、●大槻村、石関村、越畑村、山苗代村
下野大田原藩13村下大貫村、上大貫村、高阿津村、宇都野村、金沢村、下田野村、関屋村、遅野沢村、接骨木村、横林村、上横林村、折戸村、蟇沼村
下野高徳藩8村上塩原村、下塩原村、中塩原村、湯本塩原村、大原村、高徳村、藤原村、高原新田
下総佐倉藩6村○針生村、○富田村、下太田村、西太田村、上太田村、○矢板村
陸奥会津藩6村横川村、上三依村、芹沢村、中三依村、独鈷沢村、五十里村
幕府領・藩領旗本領・佐倉藩3村下柏崎村、安沢村、中村
旗本領・宇都宮藩1村前高谷村
幕府領・旗本領・佐倉藩1村後岡村
その他日光領13村柄倉村、小佐越村、滝村、川治村、西川村、湯西川村、土呂部村、黒部村、日向村、日蔭村、上栗山村、野門村、川俣村


慶応4年

5月24日1868年7月13日) - 一橋徳川家が立藩して一橋藩となる。

6月4日(1868年7月23日) - 佐賀藩士鍋島道太郎真岡知県事に就任。幕府領・旗本領を管轄。

8月 - 日光奉行が管轄する日光領を収公。


明治元年12月7日1869年1月19日) - 会津藩が改易となり、領地が真岡知県事の管轄となる。

明治2年

2月15日(1869年3月27日) - 真岡知県事が日光県に改称。

12月26日1870年1月27日) - 一橋藩が廃藩となり、領地を日光県に編入(時期は不明)。


明治初年 - このころ一橋徳川家領および東泉村の一部(寺社領)が日光県の管轄となる。

明治3年

3月19日(1870年4月19日) - 高徳藩が転封となり、領地を日光県に編入。

7月17日(1870年8月13日) - 喜連川藩が廃藩となり、領地を日光県に編入。

河原新田が富野岡新田に改称。


明治4年

7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により藩領が宇都宮県大田原県佐倉県の管轄となる。

11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により全域が宇都宮県の管轄となる。


1873年(明治6年)6月15日 - 宇都宮県が栃木県に合併。

1874年(明治7年)(1町144村)

前岡村・後岡村が合併して岡村となる。

狭間田新田・根本新田・谷中新田が狭間田村に、平三郎村が葛城村にそれぞれ編入。


1875年(明治8年)(1町139村)

東乙畑村・西乙畑村が合併して乙畑村となる。

精進内村・川中子村・塚原村が木幡村に、西大田村が下太田村にそれぞれ編入。


1876年(明治9年)(1町138村)

関俣村・前高谷村が合併して花岡村となる。

上野新田が上野村に改称。


1878年(明治11年)11月8日 - 郡区町村編制法の栃木県での施行により、行政区画としての塩谷郡が発足。郡役所を矢板村に設置。

町村制以降の沿革1.矢板村 2.泉村 3.箒根村 4.塩原村 5.藤原村 6.栗山村 7.船生村 8.玉生村 9.大宮村 10.氏家町 11.阿久津村 12.北高根沢村 13.熱田村 14.喜連川町 15.片岡村 (紫:矢板市 桃:日光市 橙:那須塩原市 黄:さくら市 赤:塩谷町 緑:高根沢町)

1889年(明治22年)

4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。(2町13村)

矢板村 ← 矢板村、中村、富田村、木幡村、川崎反町村、倉掛村、土屋村、針生村、荒井村、幸岡村、片俣村、塩田村、高塩村、下太田村、館ノ川村、境林村(現・矢板市)


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