塩竈みなと祭
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塩竈みなと祭
Shiogama Minato Festival
御座船である鳳凰丸
イベントの種類地域イベント
通称・略称みなと祭
開催時期毎年7月第3月曜日(海の日
初回開催1948年昭和23年
会場塩竈市中心部
主催塩竈みなと祭協賛会
来場者数114,300人[1]
(2019年)
最寄駅本塩釜駅
公式サイト
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塩竈みなと祭(しおがまみなとまつり)は宮城県塩竈市にて毎年7月第3月曜日(海の日)に実施される祭り広島県廿日市市宮島町厳島神社で実施される管絃祭神奈川県真鶴町貴船神社で実施される貴船まつりとあわせ、日本三大船祭りとされている[2]
概要塩竈みなと祭前夜祭の花火

港町として栄える塩竈の経済発展と、戦後の疲弊した市民の元気回復を祈願し、1948年から開始された。毎年7月の第三月曜日(海の日)に開催される[3]鹽竈神社、境内の志波彦神社よりそれぞれ神輿を繰り出し市内を練り歩いた後、塩竈港に待つ御座船(龍鳳丸、鳳凰丸)へ乗り入れ、海上を巡幸する。海上では100隻を超える漁船大漁旗を掲げて御座船を追随し、太鼓などを鳴らしながら囃す。市内では「よしこの鹽竈」、「塩竈甚句」などのパレード花火大会も催される。
歴史
みなと祭の開始

終戦を迎えた直後の塩竈では、大型漁船のほとんどが日本軍によって徴用され失われていたものの、小型漁船が残ったことによって出漁し水揚げを行った。これは1945年昭和20年)10月に政府が生鮮魚介類の配給と価格の統制を一時的に撤廃したことも関係している[4]

1945年(昭和20年)時点での水揚量は1940年(昭和15年)と比較し17分の1に過ぎない6,700トン程度であったものの、食糧不足下で需要過多と相乗作用を起こし価格が高騰、水産加工工場も次々と開設され、いわゆる「浜景気」と呼ばれる好景気に沸いた[4][5]

塩竈に浜景気が訪れていた1948年(昭和23年)、当時の塩竈商工会議所事務局長で後の塩竈市助役を務めた板宮文蔵の熱心な提唱により、塩竈港と市勢の発展を促進し活性化を図る策として「塩竈みなと祭」が創始された。開催日については鹽竈神社本祭の日である7月10日を選定し、神輿海上渡御をメイン行事とした[6]
開始から昭和までチリ地震津波による塩竈市内の被害

祭りのメインである神輿海上渡御行事は全国的にも珍しいものであり、以後は毎年数万人が訪れる祭りとなった。しかし、当初開催日として定められた毎年7月10日は、東北地方における梅雨の末期にあたるため、祭りの当日が豪雨に見舞われることが度々発生した。このため1963年(昭和38年)からは、仙台管区気象台による記録でこの時期に最も降雨例の少なかった8月5日に改められた[6]

1960年(昭和35年)に発生したチリ地震津波では、塩竈市内が津波に襲われ大きな被害が生じ、縮小と一部行事の中止があったものの、第13回塩竈みなと祭が行われた[7]

1964年(昭和39年)からは、塩釜市魚市場の竣工を記念し、水産業者から献納された志波彦神社の神輿と御座船「龍鳳丸」も祭りに参加することになった[6][2]

1981年(昭和56年)3月、塩竈青年会議所が鹽竈神社の帆手祭三百年を記念して「ふるさと塩竈」の歌を募集し、最優秀作品として「塩竈おまつり音頭」(小泉勝弥作詞作曲)が選ばれた。翌年の1982年(昭和57年)にはテイチクによってレコード化され、花柳琢兵衛の振り付けにより同年の第35回塩竈みなと祭から陸上パレードに取り入れられている[8]
平成から現在マリンゲート塩釜から望む塩竈みなと祭(2015年7月20日)菅義偉より表彰を受ける塩竃みなと祭協賛会(2014年11月26日)ふるさとイベント大賞受賞式にて(2014年11月26日)

1989年平成元年)、ギタリストの寺内タケシによって「よしこの塩竈」が作られた。従来より歌われていた塩竈甚句をモチーフとしており[9]、現在もよしこの鹽竈パレードの中に組み込まれている[2]

2011年平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では、津波により龍鳳丸が岸壁に乗り上げる被害が確認されたものの、幸いにも御座船に大きな損傷にはなかった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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